高等学校歴史総合/歴史のなかの16歳 集団就職 「金の卵」たちの時代
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集団就職列車に乗って
編集森進一さんは、昭和の有名な歌手です。「おふくろさん」「襟裳岬」などの歌で知られています。母子家庭で育ち、幼少期は各地を転々としていました。中学3年の時、鹿児島(母の故郷)に移住しました。1963年春、長田中学校を卒業すると、友人達と24時間かけて電車で大阪に向かいました。この年、九州の中学を卒業した4万4000人余りが関西や関東に集団就職しました。かつて国鉄博多駅の駅長を務めていた井出干樹さんは、当時の様子を次のように語っています。
窓から手を出して、手を振ります。子供達は窓枠から両手を出して手を振り、親達は嬉しい反面、見送るのが悲しくてやりきれない気持ちになりました。それぞれの思いが物語をつくっていきました。
見知らぬ土地で、見知らぬ人達と一緒に仕事をする幼い子供達は、この家族の強い絆に支えられていたのかもしれません。私達も、複雑な思いで子供達を送り出しました。1965年、中学を卒業して県外に就職した男子生徒の74.5%、女子生徒の89%が鹿児島県を第1位としています。当時、日本経済は急成長しており、重化学工業や繊維工業を中心に多くの労働力が必要とされていました。しかし、都市部では高校や大学へ進学する学生が増えたため、貧しく進学率の低い地方は、特に中学を卒業したばかりの人が就職するのに最適な場所となりました。この人達は、「金の卵」と呼ばれました。九州・中国・四国の卒業生は京阪神や中京方面へ、東北・北海道の卒業生は東京方面へ、それぞれ国鉄の特別列車で移動しました。また、沖縄のように船で集団就職する地域もありました。
この歴史的な出来事は、1964年のヒット曲「あゝ上野駅」にも反映されています。
子供達とふるさと
編集「金の卵」といっても、給料はほとんど貰えず、大変な仕事も数多く見受けられました。森進一さんは寿司屋の住み込みで働いていましたが、月給5000円は大卒の3分の1しかなく、家族に仕送りをするために17回も転職を繰り返しました。子供がどうやって生計を立てていくのか、心配したのは家族だけではありません。学校も、生徒の職場に職員を送って励まし、生徒の姿をもっと知りたいと考えていました。また、受け入れ側も、子供達の出身県から木を植えて、関係を深めるとともに、安定した労働力の確保に努めました。その一例が、大阪市の長居公園にある「ふるさとの森」です。
1970年代に入ると、集団就職に支えられた日本の高度経済成長は終わりを迎えます。1977年、労働省は集団就職を廃止しました。しかし、沖縄など地元の就職先が少ない県では、都市部での集団就職が続きました。