高等学校歴史総合/第二次世界大戦

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 第一次世界大戦後、国際協調体制が整ったとはいえ、世界は再び戦争への道を歩み始めていました。戦争は人々の考え方にどのような影響を与えるのでしょうか。

ドイツの拡大 編集

 ドイツが1933年に国際連盟を脱退したのは、ヴェルサイユ体制から自由になりたかったからです。その後、再軍備宣言と徴兵制復活を決めました。ドイツはロカルノ条約も破り、ラインランドの非武装地帯に進出しましたが、列強はドイツに対する制裁を厳しくしません。イタリアもエチオピアに侵攻するなど、他国への侵略を強めていきました。また、ドイツと接近し、1936年にはベルリン・ローマ枢軸が成立しました。スペインで反ファシズムの人民戦線内閣が成立され内戦が起こると、ドイツとイタリアは反乱軍のフランシスコ・フランコ将軍を支持しました。一方、イギリスとフランスは不干渉政策をとったので、ソ連や国際義勇軍の支援を受けても、人民戦線政府は敗退しました。

 アドルフ・ヒトラーが1938年にオーストリアを併合したのは、「ドイツ民族」を復活させるためでした。次にドイツ人の多いチェコスロヴァキアの一部、ズデーテン地方を併合しようとしました。戦争を回避するため、イギリスとフランスはドイツ、イタリアとミュンヘン会談を行い、ドイツの要求に応じました。このような政策を宥和政策といいます。

第二次世界大戦 編集

 1937年、イタリアは日本、ドイツとともに防共協定を結びました。この3カ国は、ソ連の恐怖に備えるために、枢軸国を結成しました。1939年、ドイツはミュンヘン会談で不参加を約束していたチェコスロヴァキアに侵攻し、チェコスロヴァキアを解体しました。独ソ不可侵条約を締結したドイツは、1939年9月にポーランドに進攻しました。これに対して、フランスとイギリスが宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。ソビエト連邦もポーランドの東半分を占領し、フィンランドとバルト三国を領土に加えました。

 ドイツ軍はパリも占領して、ロンドンなどでは民間人への空襲で多くの被害が出ました。ドイツはバルカン半島も占領し、ソ連との関係も悪くなったため、1941年6月に独ソ戦に突入しました。しかし、ドイツはスターリングラードの戦いに敗れ、東部戦線で敗北しました。一方、アメリカは1941年3月に武器貸与法を成立させて、ヨーロッパ戦線でイギリスとソ連を支援しました。1941年12月、ついにアメリカは戦争に参加しました。1944年6月、連合国によるノルマンディー上陸作戦が成功すると、ドイツは西部戦線での戦力を縮小しました。

大量殺戮と民衆の抵抗 編集

 ナチ党は優生思想に基づき、ユダヤ人、スラヴ人、ロマ、障害者、その他社会的弱者を対象に、組織的な殺害を行いました。特にユダヤ人におびただしい数の死者が出たといわれています[1]。ドイツ軍占領地域では、抵抗運動(レジスタンス)が盛んになり、自力で解放した地域もありました。

  1. ^ ユダヤ人の死者数には一般的に600万人といわれていますが、この数字が出た当時からアウシュヴィッツ収容所などでの死者数に関する定説が変化しており、この数字には疑問点も出され、それ以下であるともそれ以上であるともいわれるなど、人数は定まっていません。