高等学校歴史総合/脱植民地化とアジア・アフリカ諸国
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アジア・アフリカ諸国の独立
編集第二次世界大戦後、列強諸国は弱くなりました。その代わり、アジア・アフリカ諸国は自国を自分達だけで治められるようになりました。
第二次世界大戦後、東南アジア諸国は自国だけで政治を行いたいと思うようになりました。インドネシアのスカルノはオランダと戦ってインドネシアを独立国にしました。一方、ベトナムのホー・チ・ミンは独立のために戦いました。しかし、フランスが反対して、フランスと対立しました。その結果、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム国(南ベトナム)に分かれました。ホー・チ・ミンがベトナム全土を統一出来そうになっても、アメリカの介入で失敗に終わりました。
インドの国民会議派は、インド全体を1つの国家として独立させたいと考えていました。一方、インド・ムスリム連盟は、イスラム教徒中心の新しい国家を作りたいと考えていました。結局、1947年になってもお互いの意見が全然合わなくて、インドとパキスタンに分かれました。
第二次世界大戦が終わると、中東も大きく変わりました。ヨルダンとシリアが自国を持てるようになりました。1948年、ユダヤ人が新しい国家[イスラエル]を作ると、パレスチナ在住のアラブ人と揉めるようになりました。
北アフリカのチュニジアとモロッコが最初に独立しました。その後、アルジェリアも頑張って独立を勝ち取りました。ガーナが最初に黒人在住地域で独立しました。3年後、一気に17か国も独立しました。したがって、1960年を「アフリカの年」と呼んでいます。
アフリカの独立と統一への歩み |
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ガーナ共和国のクワメ・エンクルマ大統領は「アフリカ諸国で協力していこう」とアフリカ諸国に呼びかけました。1963年、アフリカ統一機構を作りました。しかし、かつて列強諸国が民族を考えずに、国境線を勝手に引きました。その結果、民族同士で争ったり、政治家が自分の利益ばかり考えたりして、国家もまとまらなくなりました。ガーナも同じように、国家がまとまらなくなりました。結局、クワメ・エンクルマ大統領は軍隊のクーデターで追い出されました。2002年、このような問題に立ち向かうため、アフリカ諸国がアフリカ連合を作りました。 |
第三世界の形成と連帯
編集1950年代から1960年代にかけて、アジア・アフリカ諸国は冷戦の中で中立の立場を取りました。1954年、中国の周恩来とインドのジャワハルラール・ネルーが平和五原則を決めました。その後、29か国がインドネシアのバンドンに集まってアジア・アフリカ会議を開きました。アジア・アフリカ会議の参加国は「各国平和に暮らしましょう」「植民地の国家を助けましょう」と呼びかけました。1961年、ユーゴスラビアのヨシプ・ブローズ・ティトーとエジプトのガマール・アブドゥル=ナセルが中心になり、非同盟諸国首脳会議を開きました。非同盟諸国首脳会議でも「私達は平和に暮らしたい。自国の政治は自分達で決める。」と伝えています。