高等学校世界史探究/アラブの大征服とイスラーム政権の成立Ⅱ

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 アラブの大征服とイスラーム政権の成立Ⅱでは、アッバース朝~ブワイフ朝までの内容を学習します。

イスラーム帝国の形成

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 『コーラン』には、信者は誰でも平等と書かれています。そのため、非アラブ人は、イスラーム教に改宗すれば、アラブ人と同じ権利を持てるようになると考えました。これらの非アラブ人をマワーリーといいました。しかし、改宗は権力を持ったアラブ人に頼っていたため、主人とマワーリーの地位には格差が生まれました。また、農民の地租が政府の財源となっていたため、全員が同じ税金を納めるのは難しく、ウマイヤ朝の強権政治を嫌がるアラブ人もいました。次第に、アラブ人ムスリムは、イスラーム共同体を導くのはムハンマド家の一族が相応しいと考えるようになりました。この家系のアッバース家はこの考え方を利用しながら、マワーリーやシーア派ムスリムと協力して、ウマイヤ朝を倒そうと密かに運動を始めました。革命軍は、イラン東部のホラーサーン地方で立ち上がり、ウマイヤ朝の軍隊を追い払って西へ移動しました。749年、彼らはイラクの首都クーファにたどり着き、750年になると、アブー・アル=アッバースを初代カリフとして迎え入れました。以降、アッバース朝がイスラーム帝国として支配を始めました。

 
アッバース朝時代のバグダード(767年頃~912年頃)

 しかし、ウマイヤ派を追い出したアッバース朝も、政権運営を安定させるため、やはりスンナ派(多数派)に従わなければなりませんでした。革命運動に協力したシーア派の期待は裏切られ、多くのシーア派ムスリムの命が奪われました。第2代カリフのマンスールは、アッバース朝国家の基礎を築きました。マンスールは、アラブ人兵士の子孫を中心に成り立ち、王朝を築くために多くの功績を残したホラーサーン軍に頼りました。この軍隊こそが、カリフを支える主要な存在でした。また、租税庁や文書庁などの官庁を設けてイラン人の書記を雇うほか、各官庁をまとめる宰相(ワズィール)という役職を設けて、官僚機構の整備を進めました。また、主要な街道に沿って馬を走らせる駅伝の制度を設けたのも、地方の状況を知るのに有効で、駅伝の制度がやがて中央集権的な体制作りにつながっていきました。

 マンスールも新王朝に見合う首都の建設に力を入れました。彼は、現地をよく見て、ティグリス川の西岸にある小さな町バグダードを新首都にしようと決めました。766年に完成した新首都は「平安の都」(マディーナ=アッサラーム)と名付けられました。三重の城壁に囲まれた内側にカリフの宮殿やモスクが建ち並び、商人や職人は城壁の外で生活しなければならなくなりました。バグダードは東西貿易路の交差点にあり、豊かなイラク平野の中央に位置していたので、建設後、すぐに都市が発達しやすくなりました。ティグリス川の両岸に発展した都市では、イスラーム世界の産物だけでなく、中国の絹織物や陶磁器、インドや南アジアの香辛料、アフリカの金、奴隷などが様々な市場(スーク)に並びました。経済の発展とともに、多くの文人、学者、技術者がバグダッドに移住しました。やがて、人口100万人のバグダッドを中心に、最先端のイスラーム都市文明が生まれていきました。

イスラーム教徒の商人
 イスラーム世界には、イスラーム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒などの商人がいましたが、やはり商人の大半はイスラーム教徒(ムスリム)でした。アッバース朝が成立前後から、アラブ人やイラン人などのムスリム商人は、アフリカ・インド・東南アジア・中国などに広がりました。これらの地域にイスラーム文化を持ち込み、金・奴隷・香辛料・陶磁器・絹織物などの贅沢品をイスラーム世界に持ち込みました。これらの大商人が様々な商品を販売したのとは反対に、都市の市場商人は単品の品物を販売する小商人でした。彼らは職人とともに、都市部の中間層を占めました。

 アッバース朝では、イラン人が重要な仕事に選ばれるようになり、イスラーム法が成立して、全てのムスリムが平等に扱われるようになったため、アラブ人の特別な権利は次第に失われていきました。アラブ人以外でもイスラーム教に改宗すれば人頭税を払わなくてよくなり、アラブ人でも農作物を作ると地租を払わなければならなくなりました。このような課税の仕方は、その後のイスラーム王朝が全て守らなければならない規則となりました。公用語としてアラビア語が使われ、書物も全てアラビア語で書かれていました。一方、イスラーム社会は、周辺地域のイラン人・トルコ人・アルメニア人・ベルベル人・インド人などを積極的に受け入れました。そして、イラン人・トルコ人・アルメニア人・ベルベル人・インド人の長所を生かしながら使い分けてきました。カリフの政治はイスラーム法に基づきますが、その法律を読み解くウラマー(知識人)は、様々な民族の出身者から成り立っていました。

ザンジュの乱
 アッバース朝時代には、カリフ・官僚・商人などが私有地(ダイア)を経営するようになりました。特に、アフリカからの黒人奴隷(ザンジュ)を使って、イラク南部の土地を改良していきました。ザンジュは苦しい生活を送り続けたため、869年に大反乱を起こしました。彼らは向上心溢れるアラブ人に励まされ、10年以上にわたってイラク南部を支配しました。この反乱はカリフの権力を終わらせ、アッバース朝の国家体制を揺るがしました。

 このように、ウマイヤ朝からアッバース朝への移行は、アラブ人が非ムスリム人を支配するという考え方から、民族よりも宗教を重視した仕組みへの移行と考えられます。こうした理由から、ウマイヤ朝の時代を「アラブ帝国」、アッバース朝の時代を「イスラーム帝国」と呼ばれています。

イスラーム帝国の政治的分裂

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コルドバのメスキータは、8世紀の終わり頃イベリア半島に建てられました。世界遺産に登録されています。柱廊を持つ二重アーチの礼拝堂、礼拝を呼びかけるミナレット、オシンジの木がある中庭、レコンキスタ後に増築されたキリスト教会などを備えています。

 アッバース朝の成立後、ウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世は北アフリカに亡命しました。756年、地中海からイベリア半島に渡って、後ウマイヤ朝を建国しました。コルドバを首都として、ペルペル人の反乱を抑えるとともに、政権の基礎を固めました。後ウマイヤ朝とアッバース朝は政治的に対立しましたが、学者達はバグダードやダマスカスへ行き、東方のイスラーム文化を学びました。そして、学んだ成果をイベリア半島に持ち帰りました。アブド・アッラフマーン3世の時代、後ウマイヤ朝は最盛期を迎えて、コルドバは人口50万人の大都市に成長しました。アブド・アッラフマーン3世は、マグリブ(エジプト以西の北アフリカの一部)西部の大部分とイベリア半島を支配しました。アッバース朝に対してカリフの称号も使いました。

 一方、東側のアッバース朝では、東西貿易の発展と灌漑農業の拡大によって、ハールーン=アッラシードの時代に黄金時代がやってきました。9世紀から10世紀にかけて、バグダードは「無敵の都市」と呼ばれるほどの成功を収めました。しかし、ハールーン=アッラシードが亡くなると、イランのホラーサーン地方でターヒル朝がすぐに独立を宣言すると、東部では鍛冶職人(サッファール)出身のヤークーブがサッファール朝を建国しました。中央ユーラシアのアム川の東側では、イラン出身の貴族がサーマーン朝を建国すると、サッファール朝を倒してホラーサーン全域を支配しました。

 このようにカリフから独立王朝が登場すると、カリフの勢力は徐々に衰退していきました。エジプトでは、トルコ総督がバクダッドへの納税を拒否したため、トゥールーン朝が独立するようになりました。さらに、969年、チュニジアから始まったファーティマ朝がエジプトを支配すると、フスタートの北側に首都カイロを建設しました。ファーティマ朝前期のエジプトは紅海貿易で繁栄しました。しかし、ファーティマ朝後期のエジプトはカリフの統治が悪く、十字軍の侵攻を受けたため、衰退しました。ファーティマ朝は、シーア派の中でも最も過激なイスマーイール派に属していました。統治当初からカリフの称号を使用して、アッバース朝カリフの権力を否定していました。

 地方王朝の独立に続き、後ウマイヤ朝、ファーティマ朝の支配者がカリフの称号を手に入れると、イスラーム世界は二つに分かれました。アッバース朝カリフの勢力は大きく衰退して、10世紀に入るとカリフの勢力はイラクの一州に限られるようになりました。独立王朝の台頭とトルコ人奴隷兵(マムルーク)の活躍が、カリフ制の崩壊を招きました。9世紀以降、アッバース朝のカリフはホラーサーン軍とその子弟に代わって、忠実なマムルークと強力な親衛隊を編成しました。しかし、トルコ人マムルークが力をつけてくると、カリフ制を好きなように変更したり、無くしたりするようになりました。

マムルーク
 主人とマムルークの関係を考えると、奴隷から、軍隊の中核となるエリート軍人になり、地方長官として統治して、王にもなった理由がよく分かります。マムルークは家族から引き離され、「育ての親」としての主人しかいなかったため、主人は彼を養子にしたかのように信頼出来ました。主人とマムルークが同性同士の関係を持ったりもしました。社会的には、これらのマムルークは主人の家族の一員と考えられていました。

 このような混乱の中で、カリフはブワイフ朝(イラン人の軍事政権)にイスラーム法を執行する権限を与えました。ブワイフ朝は穏健なシーア派王朝でしたが、彼らの君主はカリフの統治権と引き換えにスンナ派カリフの保護に協力しました。以後、10世紀半ばから11世紀末にかけて、イスラーム世界は政治制度や人々の暮らしぶりなど、様々な面で新たな変革期を迎えました。

イスラームの女性
執筆中。

資料出所

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  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 最新版と旧版両方を含みます。
  • 実教出版株式会社『世界史B 新訂版』木畑洋一ほか編著