高等学校世界史探究/アラブの大征服とイスラーム政権の成立Ⅲ

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 本節から2回に分けて、イスラーム文化がどのように成り立ったのかを見ていきます。

イスラーム文明の特徴 編集

 
岩のドームは、初期のイスラーム建築の代表的な建物です。辺の長さが21メートル、高さが43メートルの八角形の形をしています。これは底にある岩を守るための神殿で、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが真ん中の聖なる石から光のはしごを登り、この場所から天に昇ったと考えられています。

 イスラーム世界は、古代オリエントやヘレニズム文明のように、古くから多くの先進文明が栄えた地域で発展しました。イスラーム文明は、アラブ人が他国を征服する際に持ち込んだイスラーム教アラビア語を中心に、征服した国の人々が祖先から受け継いできた文化遺産が融合した文明です。また、アラブの大征服によって、様々な文化が集まった広い地域が一つの文化世界を作るようになりました。そのため、文化を共有して、発展しやすくなりました。ビザンツ帝国のディナール金貨も、ササン朝時代のディルハム銀貨も、生活を支える通貨制度として使われていました。初期の代表的建築物として、エルサレムの「岩のドーム」が挙げられます。シリアやイランから来た建築家、コンスタンティノープルから来たモザイク職人などの技術を集めて建てられました。同時に、この融合文明はイスラーム教に基づいた普遍的文明でした。イスラーム教は、全ての信者は平等なので、人種による差別は間違っていると教えています。イスラーム教は世界宗教なので、様々な人が信仰しています。こうして、イランのイスラーム文化、トルコのイスラーム文化、インドのイスラーム文化などは、それぞれの地域や民族性を踏まえて作られました。どれもイスラーム教に由来する部分がありますが、独自の特徴も持っています。例えば、モスクの建築を見ると、いずれも礼拝の場所として利用されています。しかし、建築様式や壁面の装飾は、イラン、トルコ、インドなど各地の文化が反映されています。

 ビザンツ帝国も西ヨーロッパの人々も、拡大するイスラーム世界を恐れ、非常に嫌っていました。古代ギリシャ・ローマ人はイスラーム教徒を「サラセン人」と呼んで、その存在を貶したり、憎んだりしていました。また、イスラーム教に改宗するか、人頭税を払って元の宗教を維持するか、両方を拒否して戦うかという3つの逃げ道がありました。このような選択を宗教として考えるのは、イスラーム文明がいかに高度化しているかという不安からきています。カール大帝が神の戦士としてサラセン人を懲らしめる『ローランの歌』を見ると、当時のキリスト教徒がいかに高い意識を持っていたかが分かります。近代以前のヨーロッパでは、ムハンマドを性的に不道徳な人物と感じていました。そのため、イスラーム教を誤った宗教と考えている人がほとんどでした。

 それでもビザンツ帝国とイスラーム世界の貿易は続き、地中海を経由した西ヨーロッパとイスラーム世界の貿易も止まりませんでした。11世紀以降、ヨーロッパのキリスト教徒は、イベリア半島の中部トレドを訪れ、アラビア語を学んで、イスラーム教徒が学んだ哲学や医学を取り入れました。彼らは、古代ギリシアの文献をアラビア語に翻訳して、さらにアラビア語の科学・哲学の著作をラテン語に翻訳しました。これらの著作から学んで、12世紀のルネサンスは発展しました。イスラーム文明が世界史の中で重要な役割を占めたのは、人類の歴史で豊富な実績を残しただけではありません。哲学や科学といったギリシア文明の成果を引き継いで、それを土台にしながら、ヨーロッパ文明へと発展させたからです。

イスラーム社会と文明 編集

 西アジアのイスラーム世界は、都市を中心に発展しました。農村や遊牧民の集落はやがて都市とつながり、都市は行政・手工業・商業・芸術・教育などの中心地となりました。アッバース朝の首都バグダードやマムルーク朝の首都カイロには、官僚・軍人・商人・職人のほか、ウラマーと呼ばれるイスラーム諸学の知識人が住んでいました。イスラーム都市は城壁で囲まれ、その中に大きなモスク(礼拝堂)、マドラサ(学院)といわれる学校、スークバザールといわれる市場、キャラバンサライ(隊商宿)といわれる宿泊所などが建てられていました。

 イスラーム都市間の貿易路は、ムスリム商人だけでなく、キリスト教徒・ユダヤ教徒・ヒンドゥー教徒・中国人・ソグド人など、多くの商人が利用しました。その結果、ユーラシアとアフリカに非常に大きな国際貿易網が生まれました。海では、ペルシア湾ルートがアッバース朝の首都バグダードと直接つながっていました。しかし、10世紀にバグダードが政治的に混乱すると、ペルシア湾ルートは紅海ルートに変わり、カイロやアレクサンドリアが貿易網の中心地として発展しました。11世紀頃から、アレクサンドリアと関係のあるイタリアの都市は、東方貿易で大きな利益を上げるようになりました。アッバース朝が衰退すると、陸上貿易のネットワークはセルジューク朝に引き継がれました。13世紀、モンゴル帝国の時代になると、中国とヨーロッパが結ばれました。陸上貿易のネットワークを通じて、新しい発想や生産技術が、遠く離れた場所にも素早く広まりました。ここで、東イラン出身のペルシア語を話す神学者ガザーリーが著した『哲学者の自己矛盾』という本を紹介しましょう。『哲学者の自己矛盾』は、11世紀の終わり頃にバグダッドで書かれた哲学批判書です。アラビア語で書かれているので、イスラーム世界で広く読まれました。これは、哲学者・医師出身のイブン・ルシュドが、1180年以降に、早くもイベリア半島で『自己矛盾の自己矛盾』を著して、最高の批判をしている事実からも分かります。

 
メヴレヴィー教団

 紙の生産は、イスラーム文明の発展と繁栄を支えた技術の1つです。それまで使われていたパピルスや羊皮紙は高価で重量感がありました。紙は安くて軽く、そこに書かれた文字の修正も困難でした。紙の普及で、文字を書いたり、記録を残したり、連絡を取ったりしやすくなり、イスラーム文明の発展に大きな影響を与えました。ダラス河畔の戦いで、唐の捕虜がイスラーム教徒に製紙法を教えたといわれています。8世紀中頃にはすでにサマルカンドに製紙工場がありました。バグダードやカイロなど多くの都市で製紙工場があり、様々な種類の紙が作られ、売られていました。13世紀頃、この技術はイベリア半島やシチリア島を経由してヨーロッパに伝わりました。

 10世紀以降、イスラーム社会は、イスラーム法の表面的な運用からくる堅苦しく見た目だけの信仰に満足出来なくなりました。神への愛と独自の修行によって自我を捨て、神と一体になろうとする神秘主義(スーフィズム)が盛んになりました。スーフィーとは、神秘主義を信仰する人々(粗い毛皮をまとった人々)をいいます。12世紀から、神と一体になったと考えられる聖人を中心に、神のために指導し祈りを捧げる役割を期待されるようになりました。このような状況から、多くの神秘主義教団(スーフィー教団)を結成しました。教団員やムスリム商人などが、アフリカ・中国・インド・東南アジアなどに進出して、現地の習慣に合わせてイスラーム教を広めました。カーディリー教団・ナクシュバンディー教団・メヴレヴィー教団が神秘主義的教団として知られました。

カーディリー教団

ナクシュバンディー教団

メヴレヴィー教団
イスラーム世界に広く展開しました。 アナトリアやバルカンなどのオスマン帝国領に多く、独特の旋舞で知られました。

 都市に暮らす人々とこうした神秘主義者達が、イスラーム文明を支えてきました。カリフ・スルタン・高官・裕福な商人達は、モスクやマドラサ、病院などの宗教施設や公共施設を建てました。市場や商店から出るお金は、それらを維持運営するための費用として寄付されました。このように提供された財産とそれを提供する寄進制度をワクフといいました。ワクフを上手く活用して、多くのイスラーム都市は社会基盤を整備しながら、順調な発展を遂げました。

資料出所 編集

  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 最新版と旧版両方を含みます。
  • 実教出版株式会社『世界史B 新訂版』木畑洋一ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』