高等学校世界史探究/アラブの大征服とイスラーム政権の成立Ⅳ

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 引き続き、イスラーム文化について学習します。今回はイスラーム時代の作品とかも見ていきます。

学問と文化活動

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 アラビア語言語学や『コーラン』の解釈学、そして神学法学は、イスラーム教から最初に発展した学問分野です。特に法律は、イスラーム教徒の生活と大きく関わっています。8世紀以降、イスラーム教徒が増え、意見の対立が激しくなると、コーランのみで解決出来なくなりました。こうした変化の中で、マーリクやシャーフィイーなどの法学者は、『コーラン』やムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの言葉に基づいてイスラーム法を整理する作業に力を費やしました。8世紀から9世紀にかけて、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの言葉や行動に関する多くの伝承(ハディース)を残しました。ある伝承が真実かどうかを確かめるには、誰がそれを伝えたかを調べなければなりません。そのため、イスラーム世界では特に伝記が流行しました。カリフやスルタンの伝記とともに、政治家・軍人・知識人・商人などの大規模な伝記が多く書かれました。歴史学の分野でも伝記は非常に重要です。例えば、11世紀に書かれた『バグダード史』は全14巻で、第2巻以降、全て人物の生涯を描いた内容になっています。彼らには多くの弟子がいて、「四正統法学派」といわれるスンナ派(シャーフィイー派・マーリク派・ハンバル派・ハナフィー派)とその流れをくむシーア派が相次いで誕生しました。やがて、日常生活を規制するイスラーム法が整備されると、全てのイスラーム教徒はいずれかの法学派に所属するようになりました。このように、イスラーム教やアラブの伝統に遡れる学問をイスラーム諸学(固有の学問)といいます。

 イスラーム教徒の子供は、まず『コーラン』を習います。子供達は家庭やモスクで『コーラン』を覚えると、良い先生を見つけるためにマドラサ(学校)に行きます。そして、法学・神学・哲学・歴史などのイスラームの学問を学びました。これが、イスラーム教徒が一流の知識人・学者(ウラマー)になるための唯一の方法でした。例えば、中央ユーラシアのサマルカンドやイベリア半島のコルドバの子供達は、イラクのバグダードやバスラ、シリアのダマスクス、エジプトのカイロやアレキサンドリアにイスラーム教を学びによく行きました。また、これらの機関は寄付金(ワクフ)で支えられていたため、合格した学生は無料で勉強を続け、衣服や食料も支給されました。メッカ巡礼と並んで、遠く離れた都市への「学問の旅」は、人々の知識や情報の共有に役立ちました。また、イスラーム文化の発展にも大きな影響を与えました。

 イスラーム法学は、9世紀までにイスラーム法(シャリーア)を整理するのに役立ちました。政府や権力者がイスラーム法を制定していません。ウラマーが『コーラン』やハディースを研究して、イスラーム教徒としての行動規範をまとめた法律です。主に、礼拝・断食・巡礼などに関する「儀礼的規範」と婚姻・相続・刑罰などに関する「法的規範」から成り立っています。また、税金の仕組みや戦争の規定など、イスラーム教に基づいた政治の基本も語られています。イスラーム法には「やっていい内容」と「やっていけない内容」が数多くあります。しかし、イスラーム教徒が日常生活をどのように送るかについても、非常に配慮されています。例えば、イスラーム教徒はお酒を飲んだり、豚肉を食べたりしてはいけません。

アラビア語の伝統的な命名法
本文

 伝承学から発展した歴史学も、固有の学問の一部でした。タバリーは9世紀から10世紀にかけて生きたイラン人の歴史家です。バグダードでイスラーム語学を学んでから、人類の誕生から始まる年代記形式の世界史『諸使徒と諸王の歴史』を著しました。これがアラブ歴史学の伝統となりました。イブン・ハルドゥーンは14世紀、北アフリカやイベリア半島で様々なスルタンに仕えました。その経験を活かして書いた『歴史序説(世界史序説)』では、都市と遊牧民の交渉を中心として、王朝興亡の歴史に法則性があったと主張しています。また、アル=マクリーズィーはイブン・ハルドゥーンから歴史を学びました。アル=マクリーズィーの主著『エジプト学』は、マムルーク朝時代のエジプト社会を生き生きと伝えています。

 
この写真は、バグダード近くの町立図書館を舞台にしています。人物の後ろには本が積まれています。

 9世紀初頭にギリシア文学がアラビア語に翻訳されるようになると、イスラーム教徒の外来の学問は大きく発展しました。イラン南西部のジュンディシャープール学院では、イスラーム以前からギリシアやインドの学術をシリア語やパフラヴィー語(中世ペルシア語)で研究していました。アラブ人が各地を占領すると、ネストリウス派の学者はこの研究所とその成果の全てを引継ぎました。その結果、ヘレニズム化したギリシアの学術を受け継ぎました。また、アッバース朝のカリフ・マームーンはバグダードに「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」を建てました。ここに学者を集めて、ギリシア語やペルシア語の文献をアラビア語に翻訳させる作業を行いました。ファーティマ朝時代のカイロにも、シーア派の教義を中心に哲学、数学、天文学などを研究する場所として「知恵の館(ダール=アルイルム)」が建てられました。イスラーム教徒は、まずギリシアの医学・天文学・幾何学・光学・地理学などを、これらの翻訳を通じて学びました。そして、臨床・観察・実験を通して、これらの考え方をより良く、より正確にしました。インドの医学・天文学・数学も学ぶようになり、特に、数字(後のアラビア数字)や十進法ゼロの概念について学びました。そして、この2つの考えを組み合わせて、新しい発想が生まれました。代数学や三角法などは、フワーリズミーらによって生み出されました。フワーリズミーの数学書がラテン語に翻訳されると、「代数学」を意味する「アルジェブラ」という言葉が使われるようになりました。また、光や色の伝わり方、光の曲がり方などを説明したイブン・アル=ハイサム(ラテン語ではアルハーゼン)の『光学書』は、12世紀末に翻訳されました。この本は、ヨーロッパで近代科学が発展する上で大きな影響を与えました。さらに、数学者・天文学者のウマル・ハイヤームは、高次方程式の解法を発見して、非常に正確な太陽暦(ジャラーリー暦)の作成に協力しました。彼は、手書きの「四行詩集(ルバイヤート)」で現在知られています。ソグディアナ(マー=ワラー=アンナフル)出身のイブン・スィーナー(ラテン語でアヴィケンナ)は、医学の分野で活躍した人物です。イブン・スィーナーは、臨床の知識や理論をまとめた『医学典範』を著しました。この書物は、その後、ラテン語に翻訳され、ヨーロッパで何世紀にもわたって教科書として使用されました。

千夜一夜物語(アラビアンナイト)
 
 ササン朝時代に書かれたパフラヴィー語の本『千物語』から来ています。インドのお話が大きく影響しており、様々な物語が1つの枠の物語に収められています。8世紀末にバグダードでアラビア語に翻訳され、イスラーム教にしかない物語が加えられました。12世紀に、『千夜一夜物語』と呼ばれるようになりました。バグダードの焼失後、カイロでさらに物語が追加されました。マムルーク朝の滅亡までに、ほとんどの物語が今のような形になりました。多くの書物によって作られ、最初の作者が誰であったかは誰も分かりません。1875年、英訳の複訳を通して、日本で初めて読まれました。

 ギリシア哲学、特に『形而上学』『自然科学』『オルガノン』といったアリストテレスの著作は、イスラーム世界でも深く研究されました。10世紀以降、イスラームの思想界は神秘思想の影響を強く受けるようになりましたが、それでも信仰と理性は上手く両立していました。その理由は、神学者達がギリシア哲学の言語と方法を学んで、信仰に理論的根拠を与える神学体系をまとめたからです。ガザーリーもそうした神学者の一人です。ガザーリーは、神秘主義がイスラーム教信仰の基礎だと考えました。『宗教諸学の再興』という主要な書物もガザーリーが書いています。哲学の分野で重要な人物は、イブン・ルシュド(ラテン語でアヴェロエス)が挙げられます。イブン=ルシュドは、12世紀にイベリア半島で活躍したので、アリストテレスの思想を本来の姿に戻そうとしました。文学では、詩がよく発達していたので、数多くのおとぎ話も書かれました。『千夜一夜物語(アラビアンナイト)は、インド・イラン・アラビア・ギリシアの物語を集めて、16世紀初めにカイロで現在の形にまとめられました。現在では、アラビア文学の代表作と考えられています。また、メッカ巡礼の旅を題材にした旅行記も多く、モロッコ人のイブン・バットゥータは、25年間東洋を旅した後、手書きで書き残した『三大陸周遊記』というアラビア語の旅行記を残しています。『三大陸周遊記』には、遠い中国の様子を伝えています。ペルシアの文学作品は、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ(王の書)』、ウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』、サアディーの教養・道徳書『薔薇園』、メヴレヴィー教団の創設者ジャラール・ウッディーン・ルーミーの叙事詩形式の『精神的マスナヴィー』、ハーフィズの神秘主義的叙情詩などが10世紀以降によく知られるようになりました。これらの作品は、トルコやモンゴルの支配者達によって守られてきました。『幸福の知恵』は、カラハン朝時代にカシュガルで書かれました。『幸福の知恵』はトルコの文学作品ですが、トルコ語が書き言葉として発展して、多くの文学作品を生み出すようになったのは、15世紀後半になってからです。

 
アラベスク

 宗教建築の分野では、各地に多くのモスクが建てられ、それぞれに地域的な特色が見られました。モスクには、クトゥブッディーン・アイバクがデリーに建てた大きなクトゥブ・ミナールのように、ミナレット(光塔)があるのが普通でした。そのため、イスラーム世界の街並みはこのような姿になりました。美術・工芸の分野では、本の挿絵として作られた細密画(ミニアチュール)や、他の金属の小さな破片で装飾された金属器などがよく知られています。また、イスラーム教では偶像崇拝が出来ず、人物の絵を宗教建築の装飾にも使えなかったので、唐草文やアラビア文字の入ったアラベスクが装飾文様に使われました。「アラベスク」とは「アラブ風の」という意味ですが、文様としての起源はヘレニズム時代やローマ時代にまで遡ります。その後、中国などにも影響を与えました。建築・本の装飾・織物・陶器・金属器に広く利用されています。

イブン・バットゥータ
 イブン・バットゥータは、ベルベル系の旅人としてモロッコのタンジールに生まれました。1325年、22歳の時、メッカ巡礼のため故郷を離れます。エジプト・シリアを通ってメッカに巡礼した後、イラク・小アジアなどを回って、1333年から約8年間をインドのデリーで過ごしました。スマトラ島から中国の泉州へ行きました。元朝首都の大都(北京)に行ったかどうかは分かりません。そして1349年、スマトラ・シリア・エジプトを通って再びフェスに戻りました。  帰国後、約25年かけて自分の旅を自筆で本にしました。実話に基づかない話もありますが、14世紀前半のイスラーム世界の暮らしぶりがよく伝わってきます。

資料出所

編集
  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 最新版と旧版両方を含みます。
  • 実教出版株式会社『世界史B 新訂版』木畑洋一ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著