高等学校世界史探究/世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅰ
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世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅰでは、世界恐慌・ニューディールとブロック経済について詳しく学びます。
世界恐慌とその影響
編集当時、アメリカは経済成長の時代でしたが、それでも不安材料は数多くありました。第一次世界大戦中の欧州特需で、アメリカ製の農産物も工業製品も飛ぶように売れました。しかし、第一次世界大戦が終わって、ヨーロッパの産業が立ち直ると、アメリカは農産物を海外に送るのを中止しました。1920年代後半になると、ヨーロッパの工業生産は第一次世界大戦前の水準に戻り、ヨーロッパはもはやアメリカ製品に頼らなくても済むようになりました。また、アメリカを含む各国の保護関税政策で、輸出が伸び悩みました。ところが、アメリカ企業は前向きな姿勢を崩さず、生産を続けたため、工業製品の在庫が増加しました。
工場で働いても労働者の給料は上がらず、人手不足は組み立てラインなどで解消されました。景気後退が明らかなのに、株価は上がり続けました。「株を買えば儲かる!」という投資家達の考え方が投機意欲を高め、実体経済と株価がかけ離れた状況になってしまいました。ついに、1929年10月24日木曜日「今の株価は実体経済に対して高すぎる!」と、投資家達が一斉に株を売って、ウォール街の株価は一気に下がりました。以降、世界恐慌が始まりました。[1]
株式市場の大幅な落ち込みは、不況をさらに悪化させて、工業生産も急速に縮小しました。1932年になると、工業生産は世界恐慌前の半分程度に縮小しました。自動車産業は、1932年後半に生産が最低になり、1929年前半の7分の1にまで落ち込みました。1920年代の好景気から立ち遅れた農業は、世界恐慌で大きな痛手を負いました。野菜や果物の価格は3年間で40%以下に下がり、倒産した農家の土地はしばしば競売にかけられ、暴動が起きた地域もありました。1930年、世界恐慌は金融恐慌に発展しました。大手銀行の閉鎖や企業の倒産が相次ぎ、預金者はお金を手に入れるために各地の銀行へ押しかけました。同時に、民間銀行に不安を抱く国民は、安全な郵便貯金に資金を移すようになりました。郵便貯金は、1931年からの2年間で3.4倍に増えました。
企業の閉鎖や倒産・営業時間の短縮などで、失業者や給料減額を迫られる労働者が増えました。1932年末のアメリカは、労働人口の4分の1に当たる約1300万人が失業しました。
アメリカ市場の重要性とアメリカ資本が世界経済の安定を支えていたため、恐慌の影響はすぐに世界中に広がりました。1932年までに、世界貿易は3分の1以下にまで落ち込みました。アメリカの資本がドイツ経済を助けていたため、ドイツは特に大きな影響を受けました。1931年、オーストリア最大の銀行クレディット=アンジュタルトが破産すると、金融危機はドイツを中心に中央ヨーロッパ諸国にも広まりました。
1931年6月、アメリカのハーバート・フーヴァー大統領は、賠償金と戦時国債の支払いを1年間停止する宣言(フーヴァー=モラトリアム)を出しました。フーヴァー=モラトリアムを出しても、恐慌の拡大を食い止められなかったので、1931年9月、イギリスも金本位制離脱を決定しました。1932年の6月から7月にかけて、関係国がローザンヌに集まり、賠償金の支払いについて話し合いました。ローザンヌ会議では、賠償金の大部分を免除する合意が成立しましたが、世界恐慌を食い止められず、ドイツの国内政治も安定しませんでした。
恐慌に立ち向かうために、各国が緊縮財政と物価の引き下げなど、従来通りの政策で対応しました。公務員の人員や給与の削減・新規事業の停止・福祉政策の大幅削減などを行って、各国が危機を乗り切り、経済が自力で回復するのを待ちました。しかし、これが消費意欲をさらに低下させ、恐慌を深刻化・長期化させる原因になりました。また、金本位制からの離脱や保護関税の導入など、国際経済から切り離して自国の経済基盤を守るための政策も広く取り入れられました。ドル・ポンド・フランといった国際的に通用する通貨を持ち、植民地や大きな経済圏を持つような経済基盤の強い国は、自国の経済圏を閉鎖しました。その結果、経済基盤の弱い国はますます苦しくなりました。1933年、アメリカが金本位制を廃止すると、フランスやスイスなど一部の国だけが金本位制を守りました。フランスとスイスの間では、外貨や金を必要としない物々交換が行われ、バーター貿易の発展に繋がりました。
1933年6月、イギリスのロンドンで65カ国が集まり、ローザンヌ会議後の世界経済会議(通貨や経済に関する国際会議)が開催されました。アメリカやナチスドイツは話し合いに応じなかったので、世界経済会議の話し合いは進みませんでした。それ以降、自国の利益を最優先する一国主義の風潮が強まりました。
ニューディールとブロック経済
編集1932年のアメリカ大統領選挙で、民主党のフランクリン・ルーズベルトは、現職のハーバート・フーヴァー共和党大統領に対抗して出馬しました。ハーバート・フーヴァーは、街に大量の失業者が出ていても、長い目で見ると経済は良くなると考えていました。社会保障を充実させるために連邦支出を増やしませんでした。その代わり、1932年2月に復興金融公社を立ち上げ、低利の融資を受けられるようにしました。一方、フランクリン・ルーズベルトは、民主党のホープでした。ウッドロウ・ウィルソン政権で海軍次官補を務め、1920年の選挙では民主党から副大統領に立候補しましたが、子供の頃に身体麻痺を起こし、一時政界から離れなければなりませんでした。1928年、入院生活から退院しました。その後すぐにニューヨーク州知事に当選しました。また、世界恐慌に対して、ニューヨーク州の福祉政策の充実を図りました。このような実績が評価されて、1932年の大統領選挙に当選しました。
1933年3月、フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任すると、緊急銀行法を制定して、銀行の連鎖的倒産を防ぐために、銀行に一時閉鎖を指示しました。また、復興金融公社を通じて銀行の株式を買い取り、銀行の再建を図りました。また、ホワイトハウスからのラジオ番組「炉辺談話」で、経済復興への協力を呼びかけました。さらに、恐慌対策としてニューディール(新規まき直し)と呼ばれる一連の計画を速やかに提案しました。以下、ニューディール(新規まき直し)の具体例を紹介します。
1933年5月に成立した農業調整法は、農家に補助金を出して、食料の生産量を減らし、物価が下がらないようにしました。また、政府と産業界の協力を受けて、産業部門別の生産調整を行い、物価を上げようとしたのが全国産業復興法です。全国産業復興法は、企業間の公正な競争を促すために行われました。全国産業復興法では、労働者の団結権や団体交渉権を認め、最低賃金を設定するなど、労働者の権利を守る部分も含まれていました。失業者の救済と失業率の低下を目指して、政府は新規事業を計画しました。例えば、若者に対しては、資源保護活動の仕事に就職させました。さらに、公共事業局が学校や道路の建設を推進したり、テネシー川流域開発公社が設立したりされ、大規模な地域開発が行われるようになりました。テネシー川流域開発公社では、ダム建設による発電とダム近隣農村の活性化を図りました。
上記の復興政策を計画するため、「ブレーン=トラスト」を集めました。「ブレーン=トラスト」では各学者や各専門家から成り立ちました。政府がそのような各利益団体の仲介役となっても、当初の経済復興効果は僅かでした。1933年6月のロンドン世界経済会議で、フランクリン・ルーズベルト政権は国際金本位制の再建協力を断りました。金の裏付けがなくても通貨を作れる管理通貨制度の方が、恐慌に取りやすいと考えたからです。その結果、1930年代に入ると、世界経済はますます複雑になり、それぞれのグループが頻繁に争いました。つまり、ニューディール政策とは、世界経済の立て直しよりも、アメリカ経済の回復を優先させる政策でした。1934年6月に互恵貿易協定法を成立させ、協定国間の関税を引き下げる予定でした。しかし、協定締結国の大半はドル=ブロックの形成に貢献したラテンアメリカ諸国でした。
しかし、フランクリン・ルーズベルト政権がいち早く恐慌対策に動いたにもかかわらず、その効果は薄く、1934年の春になっても約1000万人の失業者がいました。そのため、富の再分配などを求める社会運動が盛んになり、1935年になると、連邦最高裁判所が全国産業復興法の一部を違憲とする判決を出しました。このような判決を受けて、フランクリン・ルーズベルト政権は改革姿勢を強め、1935年にワグナー法(全国労働関係法)を成立させました。ワグナー法(全国労働関係法)は、「全米産業復興法」にある労働者の団結権、団体交渉権を認め、経営者の組合活動に対する不当労働行為を禁止しました。これが労働運動を活性化させ、労働組合の発展をもたらしました。1935年、熟練労働者を中心に活動していたアメリカ労働総同盟は、産業別労働者組織委員会を立ち上げました。これによって、鉄鋼業や自動車産業での基盤を拡大しました。景気回復の効果はあまり期待出来ないにしても、ファシズム諸国から民主主義を守るために、政府が社会保障法を成立させ、貧困層に幸福をもたらすのは大きな意味を持ちました。産業別組織委員会に加盟していた労働組合がアメリカ労働総同盟指導部から追い出されたので、産業組織委員会は産業別組織会議を結成しました。
国民はニューディール政策を気に入り、1936年の選挙でフランクリン・ルーズベルトが記録的大勝利を収めました。しかし、1930年代後半に再び不況が深刻化すると、第二次世界大戦が始まるまで景気は完全に回復しませんでした。
外交面では、1933年にソビエト連邦を承認しました。その後、アメリカはハイチへの占領をやめ、キューバはアメリカからプラット修正条項を取り上げられました。1936年になると、パナマ運河地帯をパナマが単独で所有するようになりました。1934年、高率の保護関税を引き下げ、善隣外交によって、ラテンアメリカ諸国を内政に関与させず、武力行使もせずにドル経済圏に組み込む方針を決定しました。このように、それまでの強引な政策からの転換は、貿易を拡大するために行われました。また、10年間の独立準備期間を経て、フィリピンを独立させる法案を作成しました。また、周辺のファシズム諸国が攻めてきた時も、中立を選択しました。1935年以降、議会は中立法を制定して、戦争をしている国に武器や軍需品を売ったり、融資をしたりする行為を違法としました。しかし、1939年にヨーロッパで戦争が始まると、大規模な軍備増強に乗り出しました。1941年には武器貸与法を制定して、イギリスを含む連合国側の支援を強めていきました。
この軍事生産の拡大は、アメリカ経済を数字上でも急成長させただけではありません。航空機・石油化学・原子力・コンピュータなどのハイテク分野での技術進歩にもつながりました。こうして、第二次世界大戦後、アメリカが世界の主要国として活躍するための経済的基盤が整いました。
アメリカ経済と密接な関係にあるラテンアメリカ諸国では、世界恐慌の影響は非常に深刻でした。社会不安は大きく、独裁政権が誕生した国もありました。ポピュリズム色の強い大胆な政策を実行した政権もありました。ポピュリズムとは、国民の伝統や感情に直接訴え、政治を変え、政策を実現しようとする思想や運動の名称です。第二次世界大戦後、アルゼンチンの大統領になったファン・ペロンは、ラテンアメリカでポピュリズム運動を行った最も重要な政治家でした。例えば、メキシコのラサロ・カルデナス大統領は、土地を持っていない農民に農地を与えたり、労働組合を支援したり、他国が所有していた石油会社を買収したりといった活動を行いました。ブラジルのジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領は、軍事クーデタによって政権を握りました。工業化を進めるとともに、労働者の生活改善にも取り組みました。
スウェーデンをはじめとする北欧諸国も、世界恐慌で経済が苦しくなりました。特に人口の多くを占める農民の状況は悪く、政治的な不満が高まっていました。しかし、1930年代後半になると、社会民主党や労働党は、自国が恐慌から脱却するための対策を取るようになりました。その中には、公共事業や農民の支援、農産物の輸出を増やすための工夫などが含まれていました。また、これらの政府は労働者の社会保障を充実させ、福祉政策によって誰もが同じだけのお金を得られるようにしようとしました。第二次世界大戦後、1930年代から言われていた政策がようやく実行に移され、北欧諸国にも広がりました。そのおかげで、20世紀初頭には西ヨーロッパの遅れをとっていた北欧諸国が、20世紀後半には世界で最も豊かな場所の一つになりました。
イギリスでは、1929年の世界恐慌の影響で、1931年には280万人が失業しました。増え続ける失業保険の赤字に対応するため、第2次ラムゼイ・マクドナルド労働党内閣は、失業保険額や公務員給与の削減などの緊縮財政策を提案しました。しかし、政権を握っていた労働党に反対され、ラムゼイ・マクドナルドを追い出しました。そこで、保守党と自由党の協力によって、ラムゼイ・マクドナルドは挙国一致内閣をつくり、下院を解散して総選挙を行い、圧倒的な大差で勝利しました。そして、ラムゼイ・マクドナルドは、金本位制を廃止して、緊縮財政を敷き、保護関税を導入しました。1932年、カナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ会議)が開かれました。イギリス連邦内で作られた商品には無税・低関税をかけ、イギリス連邦外で作られた商品には高関税をかける特恵関税制度が作られるようになりました。また、イギリスと経済的に関係の深い国々は、ポンドを決済通貨とするスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)を結成しました。そのため、世界経済の崩壊が早まりました。
世界恐慌の時、政治家の関心は、恐慌をいかに食い止めるかといった国内問題に集中しました。第一次世界大戦後は、戦争に行かせないようにしようという平和論、反戦論も強まりました。1935年の選挙に勝ち、ラムゼイ・マクドナルドの後を継いだ保守党のスタンリー・ボールドウィンと1937年に就任したネヴィル・チェンバレンがともに首相を務めていました。日本・ドイツ・イタリアのファシズム諸国は、譲歩して事態を悪化させないようにする宥和政策をとりました。その結果、ヴェルサイユ体制が破壊され、これらの国による武力攻撃へとつながっていきました。一方、ファシズム諸国の行動に備えておく必要があるという意見もあり、1930年代後半になると、より強力な兵器を手に入れるようになりました。
1920年代、フランスは金を大量に蓄えていたため、財政的に恵まれていました。そのため、恐慌の影響がフランスに及んだのは、他国が恐慌に見舞われた約2年後でした。また、フランスでは農業がまだ最も重要な産業であったため、他の先進国に比べて失業率が低く抑えられていました。世界恐慌に対するフランスの対応は、1933年にベルギーやオランダなど、まだ金本位制を採用していた国々と金ブロック(フラン=ブロック)を結成しました。また、フランスはデフレ政策として関税の引き上げや支出削減を行いましたが、これらはあまり効果がなく、経済の回復を遅らせました。
この間、政権交代や不祥事が相次ぎ、人々は政治に疑問を抱くようになりました。1934年2月、パリでは右翼団体がコンコルド広場で政府に対するデモ行進を行いました。この出来事は、ナチス・ドイツなどのファシズム国家の台頭や国際連盟の力不足への不安とともに、左派がファシズムに対する危機感を抱くようになりました。1934年7月、社会党と共産党は統一行動協定に合意しました。後に社会党・急進社会党・共産党の反ファシズム知識人がこれに加わり、人民連合(人民戦線)綱領となりました。1936年の総選挙では、人民戦線が大差で勝利して、レオン・ブルム人民戦線政府が成立しました。
選挙に勝利した後、デフレ政策に不満を強めた労働者は、労働条件の改善を求めて大規模なストライキを行いました。これを受けて、レオン・ブルム政権は週40時間労働や有給休暇の増加などの改革を行って、政府による経済統制を強化しました(レオン・ブルムの実験)。この間、フランスとソ連は1935年に仏ソ相互援助条約を締結しました。この間、レオン・ブルム政権もフランス以外の危機に備え、軍備を増強しました。しかし、政府はスペイン内戦に関与しない方針を固めました。フランの切り下げなどに反対したため、人民戦線はさらに分裂して、1937年6月にレオン・ブルム内閣は総辞職しました。
そのため、フラン・ブロックやドル・ブロックのようなブロック経済が形成され、その間の競争が激しくなりました。主要国は、自国を中心にこうした排他的経済圏を作りました。そのため、世界の様々な地域間の自由貿易を止め、政治的な対立を引き起こしました。ドイツが東南アジアにつくった経済圏、日本が東アジアにつくった円ブロックによって、国家間の経済的緊張はさらにひどくなりました。第二次世界大戦は、このような緊張関係から始まっていきました。
資料出所
編集- 木村端二、岸本美緒ほか編著『詳説世界史研究』株式会社山川出版社 2017年
- 木村端二、木下康彦ほか編著『改訂版 詳説世界史研究』株式会社山川出版社 2008年
- 木畑洋一ほか編著『世界史B 新訂版』実教出版株式会社 2017年
- 平尾雅規著「大学入学共通テスト 世界史Bの点数が面白いほどとれる本」株式会社KADOKAWA 2020年
ここに注意!!
編集- ^ 世界恐慌についての動画はhttps://www.history.com/topics/great-depression/1929-stock-market-crashにあります。