高等学校世界史探究/世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅲ

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 ドイツのナチス政権がどのように設立され、どのような政策をとったのかを本節で学習しましょう。

ナチス=ドイツの成立とヴェルサイユ体制の破壊

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 ドイツは、世界恐慌の影響をすぐに受けました。1930年までに300万人以上が失業して、1931年には工業生産が3分の2に落ち込みました。1930年3月、ヘルマン・ミュラーの連立内閣は、拡大する失業保険の赤字を誰が負担しなければならないかについて、労働者と会社側の意見が対立して崩壊しました。その後を引き継いだハインリヒ・ブリューニング内閣は、少数派内閣を組閣しました。彼は、議会で多数派になろうともしませんでした。その代わり、保守派や軍部、保守派のパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領と協力しました。ハインリッヒ・ブリューニング内閣は、デフレと増税で世界恐慌に対抗しようとしましたが、議会は反対しました。そこで、ハインリッヒ・ブリューニング内閣は国会を解散に追い込んで、新たな選挙を求めました。9月の選挙前までは小政党だったアドルフ・ヒトラー国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が、いきなり100議席以上を獲得して国会で第2党になりました。同時に、共産党の勢力も拡大しました。ナチ党の歴史的な正式名称は「ナチス党」ですが、かつては同党の政敵が侮辱するために使っていた名称です。ナチや複数形のナチスは、ナチ党員やナチ党と関係のある組織(親衛隊や突撃隊など)の構成員を意味します。国会の過半数にのぼる人々が、共和制は嫌だ、議会制民主主義から抜けたいと言った時点で、国会は機能しなくなりました。共和制を支持する社会民主党は、ハインリッヒ・ブリューニングの内閣に賛成しました。その理由は、その後に来るナチスのような存在よりはましだと考えたからです(「より小さな悪」理論)。その後、「大統領制内閣」と呼ばれる内閣が成立して、政府は必要な法律を大統領緊急令として成立させて、国会はこれを否決しませんでした。大統領緊急令は署名されるとすぐに国会に送られなければならず、国会が同意しなければ効力を失いました。

アドルフ・ヒトラー
 
 アドルフ・ヒトラーは、オーストリアの税関職員の息子でした。当初は芸術家を目指していましたが、ウィーンの美術学校に合格出来ませんでした。アドルフ・ヒトラーは軍隊から逃げ出して、ドイツのバイエルン州の州都ミュンヘンに移住しました。第一次世界大戦が始まると、彼はバイエルン軍に入り、西部戦線で戦争のほとんどを過ごしました。第一次世界大戦後、ミュンヘンに戻って、軍の情報活動を手伝いました。早くから演説が上手と注目され、定職がない分、党活動に専念出来たため、党首に選ばれるようになりました。アドルフ・ヒトラー一揆が失敗した後、アドルフ・ヒトラーは裁判にかけられました。裁判官のほとんどが反共産主義者だったので、判決は甘く、彼は獄中で多くの自由を与えられ、そこで最も有名な著書『わが闘争』を執筆しました。彼の人種差別から生まれる反ユダヤ主義、ロシアの征服は矛盾しませんが、時代や場所によって使い分けをしていました。1920年代後半、党内では、アドルフ・ヒトラーがいかにカリスマ的な存在か気づいていました。レーム事件以降、国民はアドルフ・ヒトラー大統領に期待し、愛するようになりました。

 ハインリッヒ・ブリューニングは、グスタフ・シュトレーゼマンよりも積極的に修正主義外交を行おうとしました。彼はオーストリアとの関税同盟を提案しつつ、フランスやポーランドとの関係を悪化させました。その上で、ドイツが破綻している事実を明らかにして、賠償金を免れるために、過激なデフレ政策を開始しました。この政策が不況をさらに悪化させ、1932年には600万人近い失業者が出て、国内の状況はさらに悪化しました。左翼と右翼の政治団体は、特に選挙の時期にはいつも街頭で争って、多くの死者を出す内戦に発展しました。ハインリッヒ・ブリューニングの外交政策は、賠償金の支払いを始め、ヴェルサイユ条約の負担のほとんどを解消する成果をあげました。しかし、その成果は彼の失脚後にもたらされ、こうした状況下では、ドイツ国民の政治路線に何の影響も与えませんでした。

 1932年の大統領選挙でアドルフ・ヒトラーは敗れましたが、彼は多くの期待を集め、パウル・フォン・ヒンデンブルクの最も有名な対抗馬となりました。1932年の夏までに、ナチス党は国民議会を含むほとんどの州議会で第一党になりました。ハインリッヒ・ブリューニングを追い出したパウル・フォン・ヒンデンブルクは、大統領独裁体制をより強力にしようと、より右派のフランツ・フォン・パーペン、そして軍部のクルト・フォン・シュライヒャー将軍を内閣に就任させました。伝統的保守派は、ナチスが大衆運動のように組織され、街頭暴力を使い、「社会主義」だと言うので、ナチスは良くないとまだ思っていました。一方、フランツ・フォン・パーペン内閣やクルト・フォン・シュライヒャー内閣は、国民からの支持が得られませんでした。このため、国民を味方につけるためにナチス党と協力する必要がありました。1933年1月、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に指名すると、ナチ党・保守派連立内閣を発足させました。

 ナチスの閣僚が少数派になっても、アドルフ・ヒトラーは保守派の反対を押し切って、すぐに国会を解散して総選挙を実施しました。選挙戦の間、ナチ党は初めてラジオを使って政治演説しました。同時に、反対派の選挙運動を妨げるために出来る限り手を尽くしました。1933年2月末、選挙戦の最中にオランダの共産主義者が国会議事堂放火事件を起こしました。国会議事堂放火事件は、ナチスにとってあまりにも都合がよく、当時も「単独行動ではない」「ナチスの陰謀だ」という説が流れましたが、真相はまだ分かりません。ナチスは国会議事堂放事件をドイツ共産党の犯行と受け取り、憲法の基本的権利を停止する緊急令を出しました。また、ドイツ共産党員を含む反対派を多数逮捕しました。当時行われた裁判で共産党関係者が無罪になったのも、彼らが関与していない証拠です。しかし、選挙の結果、ナチスの単独過半数獲得にはつながらず、ナチス党と保守派がやっと過半数を握る程度の票数になりました。国会をまとめると、アドルフ・ヒトラーは全権委任法を成立させて、国会の立法権を政府側に譲りました。その後、ナチスは国民革命と称して、各州や自治体を支配するとともに、他の政党を解党させて、ナチス党の一党独裁体制を敷きました。また、ナチスは既存の労働組合を解体させて、ナチスの組織の一部としました。さらに、様々な社会組織や団体をナチスの組織として合併・再編し、報道機関などのメディアを新しく作られた宣伝省に運営を任せました。また、突撃隊親衛隊は、暴力やテロを利用して、より大胆に反対意見を抑えました。社会主義者や民主主義者などの反対派を強制収容所に送り、ユダヤ人商店の不買運動を始めました。秘密警察(ゲシュタポ)は、反体制派の動きを見張り続けました。アドルフ・ヒトラー政権が誕生すると、共和派の政治家・ユダヤ人・社会主義者・民主主義者・自由主義作家などが大勢ドイツを離れていきました。その中には、物理学者のアルベルト・アインシュタイン、作家のトーマス・マン、前首相のハインリヒ・ブリューニングもいました。

 ナチ党は、第一次世界大戦後の1919年にミュンヘンに集まった反ユダヤ主義者の小集団から始まりました。この団体は、1920年に国家社会主義ドイツ労働者党と名称を変えました。当時、ドイツには右翼や反ユダヤ主義の団体が多く、ナチ党はある地域の小さな集団に過ぎませんでした。1921年、アドルフ・ヒトラーが党首になったのは、人々を興奮させる方法を知っていたからです。アドルフ・ヒトラーは1923年の秋にクーデター(一揆)を起こそうとしましたが、失敗に終わりました。このようになったきっかけは、イタリアのファシズム運動などがあったからです。その後、アドルフ・ヒトラーは全権委任法を利用して、選挙によってより大きな権力を手に入れようとしました。しかし、党の組織網を全国に拡大した以外は、あまり大きな成果を上げられませんでした。1920年代後半、議会政治が機能しなくなり、不況が深刻化します。そこで、ナチ党は、現状維持の完全否定、若さ、アドルフ・ヒトラーを強い指導者として見せる新しい大衆宣伝方式を取り入れました。その結果、現状に不満を持つ農民や都市の中間層から注目と期待を集めるようになりました。しかし、ナチ党には、現状を変えて民族共同体を作りたいだけでした。したがって、ナチ党は、明確な計画も持っていなかったので、その政党に投票する人はいつも変わっていました。

 ナチスは、州の自治を廃止して、連邦制に基づく中央集権的な政治体制に切り替えました。以降、突撃隊指導者のエルンスト・レームが反逆を計画するようになりました。1934年6月、多くの突撃隊指導者やクルト・フォン・シュライヒャー元首相など保守派有力者とともに親衛隊に暗殺されました(エルンスト・レーム事件)。エルンスト・レーム事件では、ナチスに反対する急進派や保守派が殺害されました。その結果、アドルフ・ヒムラー指揮下の親衛隊が力をつけていきました。現在、エルンスト・レームらの反逆事件は自作自演と考えられています。1934年にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が亡くなると、アドルフ・ヒトラーもその権力を引き継ぎ、独裁者となりました。ナチスはすぐに自分の国を支配するようになりましたが、他国と同じように武器を持つ権利がありませんでした。その結果、1933年10月に国際連盟を脱退した以外、特に目立った行動をしていません。

 ナチスが最初に取り組んだのは、不況対策と失業率の削減でした。アウトバーン建設などの公共事業を支援したり、軍備を増強したり、失業中の若者を労働奉仕組織で働かせたりして、失業率を下げようとしました。アウトバーンとは、ドイツ語で「車のための道路」という意味です。ワイマール共和国時代には、すでに建設計画が立てられ、その中の一部はすでに建設されていました。アドルフ・ヒトラーは、これを最高傑作だと言って話題にしました。1935年以降、その効果が現れ始めました。1936年、ドイツは、ゴム・石油・繊維などの重要戦略物資の自給自足を目指した「四ヵ年計画」を実施しました。四ヵ年計画とは、外国から持ち込まなければならない天然ゴム・石油・繊維を、ドイツが大量に作っている石炭を原料とした合成ゴム・合成石油・合成繊維に置き換える計画です。その結果、経済はさらに活性化され、1937年までにドイツ国内の失業者はほぼいなくなりました。このような合成技術はかなり早くから知られていましたが、天然物に比べて高価なので、生産しませんでした。アウタルキー計画は、成功した例もありました。外国がまだ世界恐慌の影響を受けている中、ドイツはいち早く経済を回復させました。軍拡が主な理由でしたが、そのおかげでナチス政権は世界から良い印象を持たれるようになりました。

 国民共同体の建設というスローガンの中で、ナチスは国民の娯楽も考えました。例えば、イタリアに似たような娯楽団体を設立したり、ラジオを普及させたりしました。また、福祉・社会事業(貧困者救済事業や結婚資金の貸付制度など)を充実させ、1936年のベルリンオリンピックを利用して、国民の自己意識を高めました。こうして、1936年から1937年にかけて、多くの国民がナチス政権に賛成したり、支持したりするようになりました。

ベルリンオリンピック
本文

 国内体制の整備が整うと、アドルフ・ヒトラーはヴェルサイユ体制の破壊に乗り出しました。1935年初め、ザール地方では、最終的にどこに帰属するのかを決めるための住民投票が行われました。この住民投票は以前から計画されており、圧倒的多数でザール地方はドイツに帰属しました。この成功を受けて、アドルフ・ヒトラーは1935年3月、「徴兵制を復活させて、軍隊を再武装化しましょう。」と言い出しました。そこで、1935年4月、イタリア北部のストレーザで、イギリス・フランス・イタリアの3カ国首脳会談が行われました。イギリス・フランス・イタリアは、ドイツに立ち向かい、ロカルノ体制を維持する方針を決定しました(ストレーザ戦線)。その頃、イギリスとドイツは、海軍の問題について話し合っていました。その結果、1935年6月に英独海軍協定の締結につながりました。英独海軍協定では、ドイツはイギリス海軍の水上艦艇の35%までを持ち、潜水艦はイギリスと同じ数だけ持っても構わないと定められていました。イギリスがドイツの再軍備を英独海軍協定で認めると、ストレーザ戦線は崩壊しました。

 これを受けて、1935年5月、フランスとソ連は仏ソ相互援助条約を結んで、ドイツに備えることになった。1936年3月に条約が成立すると、アドルフ・ヒトラーは「もうドイツはロカルノ条約に従わなくても構いません。」と言い出した。そして、非武装地帯となっていたラインラント地方に軍隊を入れました。イギリス・フランス・国際連盟は、抗議声明を出すだけで、何も動きませんでした。ヴェルサイユ体制とロカルノの体制は、ほとんど崩壊してしまいました。

資料出所

編集
  • 木村端二、岸本美緒ほか編著『詳説世界史研究』株式会社山川出版社 2017年
  • 木村端二、木下康彦ほか編著『改訂版 詳説世界史研究』株式会社山川出版社 2008年