高等学校世界史探究/古代オリエント文明とその周辺Ⅴ

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 古代オリエント世界Ⅴでは、アッシリア王国とアケメネス朝について学習します。

アッシリア編集

 紀元前2千年の初め、セム語系のアッシリア人がメソポタミア北部のティグリス川上流にアッシリア王国を建国しました。アッシリアの名前は、アッシュル(最初の首都や女神)に由来しています。標高500メートルのこの地域は天水農業地帯なので、下流域のように大河がもたらす肥沃な土壌に頼っていては穀物が育ちません。そこで、アッシリア人は内陸中継貿易で儲けようとしました。アナトリアには、アッシリア商人のための交易拠点が数多く設置されました。紀元前19世紀末には、メソポタミア北部一帯を支配する強大な国家を築きました(古アッシリア時代)。紀元前15世紀には、一時ミタンニ王国の属国となりました。その後、独立を回復して、紀元前12世紀には当時衰退しつつあった東地中海地域に勢力を伸ばしました。紀元前8世紀後半、サルゴン2世とともに大規模な軍事遠征を行うようになりました。サルゴン2世の息子の時代には、ニネヴエを新たな首都としました。アッシリアはバビロニアからシリアにかけて多くの民族を支配する強力な軍事国家となりました。アッシリアの軍事的成長を実現させたのは、強力な軍隊でした。鉄製の武器と強力な弓で武装した歩兵隊、騎兵隊、戦車隊が征服活動のために使われました。工兵隊は道路や橋の建設に優れていました。

 紀元前7世紀前半になると、アッシリア人はエジプトも征服しました。こうして、エジプトからペルシア湾までを支配する最初の世界帝国が誕生しました。エジプトを占領したアッシュルバニパル王の時代には、帝国は最盛期を迎えました。彼は、ニネヴェの有名な大図書館を建設しました。

 
紀元前600年頃のオリエント

 アッシリア王は強大な専制君主でした。アッシリア王は、広大な領域を支配するために中央集権的官僚体制を設けました。領土を属州に分け、物資や情報を短時間で移動させるために街道に宿駅を設置して[1]、各地に総督を置きました。王は国家の最高神アシュールの代行者と考えられていました。王は政治・軍事・宗教・裁判などを全て管理しました。また、王は、反抗的な周辺諸民族を強制的に別の土地に移住させる強制捕囚政策を実施しました。こうして反乱の芽をつぶし、帝国は政策を実行するために必要な兵士、職人、労働者を獲得していきました。

 一方、重税と圧政は服属民の反発を強めました。アッシリア帝国は、アッシュルバニパル王の治世が終わると同時に、急速に崩壊し始めました。紀元前612年、新バビロニア・メディア連合軍に敗れ、アッシリア帝国は終わりを迎えました。

 
リディアの金属貨幣

 アッシリア帝国の滅亡後、オリエントは4つの王国(エジプトリディア新バビロニア[2]メディア)に分かれました。リディアは、紀元前7世紀半ばにインド・ヨーロッパ系のリディア人がアナトリアに建国した王国です。首都サルデスを中心に、他国との交易で上手くいっていました。また、リディアは世界最古の金属貨幣を製造していた場所としても知られています。さらに、セム語系カルデア人が新バビロニアを建国しました。新バビロニアは、ネブカドネザル2世がバビロン捕囚を行った時期に、最も勢力を伸ばしました。バビロンの首都は繁栄して、世界の七不思議の1つにも数えられる「空中庭園(吊り庭)」なども造られました。

アケメネス朝編集

 
アケメネス朝の最大領域

 メディアは、イラン高原の南西に位置するファールス地方で、インド・ヨーロッパ語を話すイラン人によって建国されました。紀元前550年に同じイラン人であるペルシア人によって滅ぼされ、この場所でペルシア人はアケメネス朝を建国しました。「イラン」は、イラン高原の初期住民が自称していた「アーリア」という言葉に由来しますが、「ペルシア」はヨーロッパの言葉です。アケメネス朝の開祖キュロス2世は、紀元前547年にリディアを、紀元前539年に新バビロニアを支配しました。彼は誰も殺さずにバビロンに入り、翌年にはユダヤ人を奴隷から解放しました。次の王、カンビュセス2世はエジプトに軍を送り、全てのオリエント統一に成功しました。

 カンビュセス2世の死後、反乱が起こりましたが、第3代の王ダレイオス1世は、帝国を支配するための下準備を整えました。その結果、西はエーゲ海の北岸から東はインダス川まで広がる大帝国を築き上げました。ダレイオス1世は帝国を地方(サトラピー)に分割し、各州に知事サトラップ)を置きました。これは、アッシリアの制度を引き継いだ形ですが、初めて全土が均等に分割されました。当時の州は、少なくとも20州余りだと言われています。

 
世界遺産ペルセポリス

 ダレイオス1世は金貨と銀貨を作らせて、税金を納める方法として、貨幣を中心とした統一的な徴税制度を設けました。また、フェニキア人の海上の交易とアラム人の陸上の交易に目を配りました。この結果、都市の経済が発展しました。陸上では、サルデス・エクバタナ・バビロン・ニネヴェなど重要な場所を結ぶ国道「王の道」を建設しました。また、首都スサを拠点とした駅伝制も設けました。もう一つの王都ペルセポリスも、新たに建設されました。200年間続いたアケメネス朝支配の安定は、行政と財政の中央集権化によってもたらされていたからです。一方、アケメネス朝は、そこに住む異民族に対して寛容な立場を取り、現地の支配階級には自由に社会を運営させました。

 ダレイオス1世は自分に降参しないギリシア人に復讐するためにペルシア戦争を始めましたが、彼とその息子クセルクセス1世は共に敗れました。その後、アケメネス朝は宮廷闘争や知事達の反乱などで徐々に崩壊していきました。紀元前330年、アレクサンドロス大王の東方遠征でついに征服されました。

 
この写真は、ベビストゥーン碑文です。1810年から1895年までイギリスに住んでいたヘンリー・ローリンソンさんが、楔形文字の読み方を解明する手がかりにしたダレイオス1世について書かれています。

 イラン人は、自分達の領土に住んでいた様々な民族の文化を混ぜ合わせました。彼らは建築や工芸に優れ、ペルシア語の音を楔形文字に置き換えてペルシア文字を作りました。また、ペルシア語、エラム語、バビロニア語とともに、国際商用語(アラム語)を公用語にしました。また、帝国の政治を中央集権化しました。

 イラン人はゾロアスター教(拝火教)という火や光を崇拝対象とする宗教を信仰していました。教祖ゾロアスターが実在したのは分かっていても、彼がいつ生き、いつ活動したのかについては様々な考え方があります。紀元前1300年から1000年の間に生きたという説もあれば、紀元前630年から553年の間に生きたという説もあります。善悪二元論に基づいて、「善(光明)の神アフラ=マズダは悪(暗黒)の神アーリマンと戦いますが、最後は光明神が勝ち、最後の審判で善人の魂が救われます。」と教えています。ユダヤ教やキリスト教は、この二元論的終末論の影響を受けたと言われています。アケメネス朝はゾロアスター教を保護しました。その後、南北朝時代や隋・唐時代に中国に伝わり、祆教(けんきょう)といわれるようになりました。また、人々は光の神(ミトラ)や水の女神で大地母神(アナーヒター)を信仰していました。その後、光明神ミトラの信仰はローマ世界に広がり、密教として一般大衆に親しまれるミトラ教に変化していきました。

資料出所編集

  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 最新版と旧版両方を含みます。
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』

脚注編集

  1. ^ これを駅伝制といいます。
  2. ^ カルデア王国ともいいます。