高等学校世界史探究/古代オリエント文明とその周辺Ⅲ

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世界史探究の教科書のような大学受験用の本で使われているカタカナ表記は、日本のエジプト学ではもう使われていない、あるいは一度も使われない古い書き方です。また、「アメン」と「アモン」が同じ神なのは事実です。教科書には、「アメンホテプ4世は『アモン』という神を信じなくなり…」という原文があります。これでは、意味が通じない文章です。しかし、本節を読む人の多くは受験生ですから、世界史探究教科書のカタカナに合わせた表記に変更し、エジプト学の一般的な表記を脚注に入れました。脚注の注釈は、大学生・社会人のための基本的なものと思ってください。

 古代オリエント世界Ⅲでは、古代エジプト文明について解説します。

エジプト統一王国の形成と展開 編集

 
王朝時代、最も重要な都市がどこにあったかを示した地図です。メンフィスとテーベはどこにあるか押さえておいてください。

 ナイル川があったから、エジプト文明は発展出来ました。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、後に「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」(『歴史』2巻5章)と述べています。下エジプトはナイル川の河口付近のデルタ地帯、上エジプトはナイル川に沿って南にある渓谷地域です。毎年7月から10月にかけて、ナイル川の源流の一つアビシニア高原に雨が降ると、ナイル川は次第に増水し、定期的に氾濫します。ナイルの穏やかな氾濫は、上流から肥沃な土(ナイル=シルト)を運んでくるので、ナイル川沿岸での農業は豊かな実りを約束されました。ナイル川の定期的な氾濫は、メソポタミアのような災害ではなく、人々を救いました。もともとナイル川沿いの狩猟民族だったエジプト語圏の人々は、自然の灌漑を利用して作物を育てました。これがエジプト文明の経済的基盤になりました。

 ナイル川流域のエジプト語系の人々は、早くから村落群を作っていました。この村からノモス(県)[注釈 1]が生まれ、これが後に政治的な単位となりました。上エジプトには22のノモスがあり、下エジプトには20のノモスがありました。それぞれの集団では、同じ地域の人々が協力してナイル川の氾濫を防いでいました。そのためには、彼らをまとめる強力な指導者が必要でした。このように、紀元前4千年紀の終わりには、エジプトはすでに一つの国になりつつあり、国を運営するための政治体制も徐々に整っていきました。

 メネス(ナルメル)王が上下エジプトを統一したのは、紀元前3000年頃と言われています。エジプトは、メソポタミアより先に王(ファラオ)によって統一されました。何度も分裂し、他の地域から来た部族に支配されながらも、長い間、国家の統一を保ちました。その後、紀元前3世紀のマネトという神官が『エジプト史』を著しました。この書物をもとに、古代エジプトの歴史を30~31の王朝に分けました。このうち、古王国・中王国・新王国は最も豊かな時代でした。

 古代エジプトの王は、ナイル川を支配する絶対的な権力を持っていました。ナイル川の水位を管理し、いつ増水するかを正確に判断出来ました。王は生ける神なので、王が指導する巨大な中央集権的官僚システムが3千年間、極めて安定した神権政治を維持しました。王宮には「宰相」をはじめとする官僚の集団があり、各地の神殿には神官団が置かれました。いずれも代々受け継がれてきた役職です。書記階級は、政府と神職の両方に付属しているので、これも高い身分でした。土地を所有する王は、官僚、神官、書記に土地を与えましたが、そこに住むほとんどの人達は農民(セメデト)で、生産物に租税をかけ、ただ働きしなければならない迷惑な階級でした。

 
三大ピラミッドの写真は、左からメンカウラー、カフラー、クフ(ギザの大ピラミッド)を示しています。手前の小さなピラミッドを衛星ピラミッドといいます。

 紀元前27世紀頃、ナイル川下流域のメンフィス[注釈 2]を中心に発展した古王国時代(紀元前2686年頃〜紀元前2181年頃)[注釈 3]の統一国家は安定期を迎え、王達の権力を示す巨大なピラミッドが多数建設されました。特に「ギザの三大ピラミッド」はよく知られています。これらは、第4王朝のクフ王、カフラー王、メンカウラー王がナイル川の西岸ギザに建てました。3つのピラミッドのうち最大のクフ王のピラミッドは、20年の歳月と10万人の労働者を費やして建設されたと言われています。しかし、これは強制労働ではなく、農閑期に農民を働かせるための国家プロジェクトだったという説があります。通常、ピラミッドは王の墓と考えられていますが、王妃やその民の墓も含めた、より大きな葬送構造の一部と捉える必要があります。第5王朝以降、ピラミッドの大きさはどんどん小さくなっていきます。第6王朝以降、各地域のノモスが独立し、一時期統一性が失われました。この時期を第1中間期といいます。

 紀元前2000年頃、上エジプトにあるテーベ[注釈 4][注釈 5]の人達が、エジプトをまとめ上げ、第11王朝を立ち上げました。ここから始まった中王国時代(紀元前2055年頃~紀元前1795年頃[注釈 6])には、首都がテーベに移り、政府の中央集権化、組織化が進みました。しかし、中王国末期の紀元前17世紀、遊牧民のヒクソスがシリアからやってきて、ナイルデルタ周辺を支配しました。これによって、この国は一時期混乱に陥りました。ヒクソスはセム語系の複数の民族ですが、一部インド=ヨーロッパ語系の人々も含まれていました。ヒクソスは、それまで知られていなかったエジプトに戦車を持ち込みました。このヒクソスの時代を第2中間期といいます。

 第18王朝は、紀元前16世紀にテーベで始まりました。彼らは100年間支配していたヒクソスを追い出し、国全体をまとめ直しました。以降、約500年後の第20王朝までが新王国時代と呼ばれています。新王国時代には、第18王朝と第19王朝が最も勢力を伸ばしました。この時代、エジプトは積極的な外交政策をとっていました。第18王朝のハトシェプスト女王は、南方のプントに船団を派遣して貿易を営んでいました。プントの正確な場所は紅海の南西の海岸からアフリカに少し入ったところとか、ソマリアの少し南のところとか言われていますが、不明です。ここからエジプトは、金や香水、ヒヒなどの珍獣を手に入れました。トトメス3世はエジプト最大の王でした。彼はシリアとナイル川上流のヌビアを占領し、それらを支配する帝国にしました。第19王朝に属し、シリアに進出したラメセス2世は、ヒッタイトと戦い、この地域を支配しました。

 
アマルナ美術の代表作である、アメンホテプ4世の妻ネフェルティティの胸像

 第18王朝時代のアメンホテプ4世は、もうひとつ知られています。この王は首都をテル=エル=アマルナ[注釈 7]に移し、イクナートン[注釈 8]と改名し、従来のアモンを中心とした多神教から唯一神アトン(「アトンを喜ばせるもの」)の信仰に変えました[注釈 9]。新しい宮廷は、エジプトでは珍しいアマルナ美術と呼ばれる芸術様式の中心地でした。しかし、王が亡くなるとこの改革はなくなり、次のツタンカーメン王[注釈 10]は首都をメンフィスに移転しました。そこでは、アモン神の信仰が復活しました。

 続く、第19王朝のラメセス2世は王国の勢力を回復させました。ラメセス2世は、アブ・シンペル神殿などの大規模な建築事業を開始し、カデシュでヒッタイトと戦い、紀元前1275年頃に平和をもたらしました。紀元前12世紀以降、エジプトは徐々に力を失い、西アジアやリビアからの侵入をたびたび受けました。第20王朝には「海の民」がエジプトを支配しそうになりましたが、ラメセス3世がかろうじて食い止めました。しかし、王権は弱体化して、新王国時代は幕を閉じました。第22王朝から第24王朝はリビア人が、第25王朝はヌビアから来たクシュ人がつくりました。

 紀元前7世紀、アッシリア人がやってきて、末期王朝時代のエジプトを占領しました。紀元前525年、アケメネス朝がこれを占領し、自国の州としました。第28王朝と第30王朝によってエジプトの支配が復活しましたが、紀元前343年、アケメネス朝が再びエジプトを占領し、エジプト王朝は終わりを迎えました。

エジプトの文化 編集

 
ラー神
 
死者の書

 エジプト人は多神教を信仰しましたが、太陽神ラーはエジプト人にとって最も重要な神でした。その後、首都がテーベに移ると、この都市の守護神アモン[注釈 11]と合体[注釈 12]してアモン=ラーとなりました。この神は、アメンヘテプ4世の時代にアトン信仰が義務づけられた以外は、ほとんどどこでも信仰されました。エジプト人は、霊魂は永遠に生き続けると信じ、死後の世界を支配しているのはオシリス神と信じていました。そのため、遺体をミイラ化し、「死者の書」をはじめ、墓に多くの副葬品を添えて葬りました。このうち、「死者の書」とは、エジプト人が死者の来世での幸福を祈るために、ミイラと一緒に埋めた絵本です。死者が冥界の王オシリスを前に最後の審判を受け、椅子に座って生前の行いを説明する様子が描かれています。

 
ロゼッタ・ストーン

 エジプト人が最初に作った象形文字は、元々表意文字でした。その後、表音文字として使用出来るように変更されました。エジプト文の表意文字と表音文字の使い分けは、日本語の漢字と仮名の使い分けに似ています。書体面でも、文字が簡略化されて使いやすくなっています。そのため、以下の3種類の違いが生まれました。なお、ロゼッタ=ストーンは、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際、アレクサンドリアのロゼッタ(アラビア語でラシード)で見つかりました。上段が神聖文字、中段が民用文字、下段がギリシア文字という3種類の文字で書かれています。フランスのジャン=フランソワ・シャンポリオンは、このギリシア文字の記述から、神聖文字の解読に成功しました[注釈 13]

1.  石碑や墓室、石棺などの石器に刻まれ、象形性の強い神聖文字(ヒエログリフ)

2.  パピルス草からつくった1枚の紙にインクで書かれ、宗教書、公文書、文学作品などに利用される簡略体の神官文字(ヒエラティック)

3.  日常的に使用される最も簡略化された民用文字(デモティック)

 エジプトやメソポタミアでは、ナイル川がいつ氾濫するか、いつ農作業をするかを知る必要があったため、早くから天文や暦法の研究に取り組んできました。エジプト人は1年を12カ月、365日とする太陽暦を使用していました[注釈 14]。太陽暦は後にローマで使われるようになり、ユリウス暦とよばれるようになりました。洪水後に再び土地を使えるようにするために作られた測地学は、幾何学の原点と考えられています。エジプトにはたくさんの石材があったので、有名なピラミッドやオベリスクだけでなく、石材を使った美しい神殿がたくさん建てられました。また、様々な遺跡で見られる列柱式建築は、クレタ島やギリシアの建築様式に影響を与えたと考えられています。

資料出所 編集

  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 ※最新版と旧版両方含みます。
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』

注釈 編集

  1. ^ ノモスはギリシア語での呼び名です。エジプト語ではセペトといいます。
  2. ^ ギリシャ語ではメンフィス、エジプト語ではイネブ・ヘジといい、「白い壁」という意味です。
  3. ^ 年代は松本教授(1998年)で設定されています。考古学者によって、いつからいつまでという考え方は違うので、その点は注意してください。
  4. ^ エジプト語でワセトといいます。
  5. ^ 世界史探究の教科書には、テーベが中王国全体の首都であると書かれている場合がほとんどですが、そうではありません。中王国を構成するのは第11王朝から第12王朝(第13王朝も含む学者もいます)です。第11王朝時代の首都はテーベです。しかし、第12王朝の初代王アメネムハト1世が首都をイチャウイに移し、以後、第13王朝まで首都はイチャウイに置かれました。
  6. ^ 諸説あり。第12王朝セベクネフェルウの治世までを中王国とする場合(松本, 1998)1795年となるが、第13王朝全体を入れる場合(スペンサー, 2009)1650年までとなる。
  7. ^ エジプト語でアケトアテンです。
  8. ^ 現在、イクナートンという名前は使われていません。代わりにアクエンアテンという名前が使われます。
  9. ^ しかし、治世の前半はラー信仰が許されていたという説もあります(屋形、1969)
  10. ^ 正しい表記ではトゥトアンクアメンです。
  11. ^ 「アメン, Amen」が一般的だが、エジプト学者の中にもアメンを用いる人(例:吉村作治、屋形禎亮、松本弥、吉成薫、河江肖剰、A.J.スペンサー等)やアムンを用いる人(例:大城道則)が存在する。
  12. ^ エジプト学用語で、習合という。
  13. ^ 有名な作品に、古王国時代の『プタハヘテプの教訓』、中王国時代以前に存在した第1中間期の『メリカラー王への教訓』、中王国時代の『シヌヘの物語』、『難破した水夫の物語』がある。 教科書には中王国時代の事柄はヒクソスの侵入しか書かれていないが、特筆すべきことがないわけでは一切なく、中王国時代に書かれた文学作品も多い。
  14. ^ 現在のグレゴリオ暦では、1年が365日に満たないため、閏年があります。エジプトには閏年がなかったので、4年ごとに1日ずつの差がありました。このため、暦とは別に天体観測を行っていたようです。

テンプレートデータに関する情報

参考文献 編集

  • 松本 弥 『図説 古代エジプト文字手帳』 株式会社 弥呂久、1994年ISBN 4946482075
  • 松本 弥 『図説 古代エジプトのファラオ』 株式会社 弥呂久、1998年ISBN 4946482121
  • 松本 弥 『古代エジプトの神々』 株式会社 弥呂久、2020年ISBN 9784946482366
  • 吉成 薫 『ヒエログリフ入門』 株式会社 弥呂久、1999年ISBN 4946482121
  • A.J.スペンサー 『大英博物館 図説古代エジプト史』 近藤 二郎, 小林 朋則訳、原書房、2009年ISBN 978-4-562-04289-0
  • 屋形 禎亮, 大貫 良夫 et al. 『世界の歴史I 人類の起源と古代オリエント』 中央公論社、1998年