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旧石器時代から新石器時代へ

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 1万年前に更新世が終わり、地球が暖かくなって完新世(沖積世)が始まりました。氷河がなくなると、土地は今と同じような姿になりました。植物や動物も大きく変わりました。マンモスやトナカイなどの大きな動物は、寒い北の大地へ移動するか、死んでしまいました。一緒に北へ移動した人達は、暖かい場所を好む猪や鹿を狩るようになりました。植物が育つと、食料を探すのも簡単かつ正確になり、魚介類も豊富で食生活は格段に良くなりました。人々は自然環境の中で生きる術を身につけ、それぞれの地域で独自の生活様式を築いていきました。

 
アルタの岩絵(ノルウェー)

 ユーラシア大陸北部では、細石器から鏃のついた弓矢が作られ、狼を犬に家畜化して、狩りをしやすくしました。少人数で狩りをする集団もあれば、川や海岸線に定住して漁業や植物採集をする集団もいました。また、あるグループは、アカシカだけを狩るなど、牧畜的な行動をとっていました。ハシバミの実を栽培して、それを採れるようにしている集団も見られました。南部の草原では、主に移動狩猟を行い、岩壁などに狩猟、戦闘、舞踏などの場面を岩絵として残しています。

 西アジアや地中海東部のパレスチナでは、カモシカ、羊、山羊、豚、牛などの野生動物がよく見られます。先祖伝来の小麦、大麦、エンドウ、レンズ豆などがよく自生しており、人々は狩猟や採集をしていました。そこではフリント製のナイフなどの細石器が使われていました。食料が増えると人が増え、土壁や石壁の建つ集落も生まれ、農耕・牧畜の前段階に入りつつありました。

 この時代、人々は新しい自然環境にあわせて生活を変化させ、適応してきました。石器からみれば、更新世末期の打製石器による素朴な旧石器時代から、細石器を使う中石器時代へと移行していきました。やがて、人類は農耕や 牧畜を通して、変化と成長を始めました。これが新石器時代の始まりで、石器がきれいに磨かれ、より丁寧に作られるようになりました。

農耕・牧畜の開始

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 これまでの人類は、野生の動植物を食べて生活していました。ところが、農業や牧畜が始まり、生産経済の時代に突入しました。これは、人類にとってまさに革命でした。近代産業革命以前の最大のものだったため、人類に大きな影響を与えました。生産経済は、人類に自然とともに働き、自然をある程度管理し、自分達の生活を築いていく方法を与えました。その後、社会と文明は大きく変化しました。農耕と牧畜の生産経済は、現在に至るまで人類の生活と文明の基礎となっています。

 西アジアから地中海にかけての地域、イラン南西部のザグロス山地からアナトリア高原の南部を経て地中海沿岸に至る地域で農耕や牧畜が始まったと考えられています。これらの地では、栽培しやすい穀物や豆類が自生し、野生動物もたくさんいました。おそらく、山羊や羊が家畜として飼われるようになったのは紀元前9千年頃(紀元前9000年から紀元前8001年までの1000年間)です。一方、紀元前7千年頃までには、小麦、エンドウ豆、レンズ豆を栽培し、豚や牛を飼っていました。当時は山羊や羊の乳と動物の肉が使われていました。新石器時代には、黒曜石のような磨製石器が多く作られました。また、土器や織物も作られました。

 新石器時代以降、人々は土器をつくり、料理や食料の保存にとても便利な道具となりました。移動には向かないので、その使用は、誰かが一箇所に住み始めた証拠です。1万2千年前に日本で初めて土器がつくられたといっても、それは農耕を始める前の段階です。西アジアやインドが独自に土器を使い始めたのは、それぞれ紀元前8千年紀、紀元前6千年紀の出来事です。中国はずいぶん遅れていました。まず、練った粘土を糸状に巻いて土器を作ります。そして、型を作って押し付け、最後に轆轤が作られました。直火による低温焼成から粘土による覆土に変わり、窯の使用により硬い土器が出来るようになりました。

 この西アジアにおける初期の農耕牧畜文化は、徐々に広い範囲に広がっていきました。紀元前5千年頃までには、ユーラシア大陸やアフリカ大陸の各地で農耕・牧畜文化が発達し、それぞれの地域で独自の作物栽培や家畜飼育が行われるようになりました。先進的な西アジアでは、粘土や日干し煉瓦を使った小屋で集落を作っていました。イラク北東部では、ジャルモやテル・サラサットでこの種の新石器時代の遺跡が見つかっています。初期の農業は、雨水を利用した乾地農法や肥料を使わない略奪農法が主流でした。そのため、耕作地はたびたび放棄しなければならず、定住は困難でした。しかし、紀元前7000年頃のアナトリア中部のチャタル・ヒュユクでは、日干し煉瓦の家がたくさん連なり、壊れるとその上にまた建てて丘(ヒュユク)にしていました。新石器時代の遺跡も見つかっています。

初期農村から都市国家へ

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彩文土器

 生産技術が向上するにつれて、初期の農村の人々の移動は少なくなり、人口が増加しました。人々を結びつける呪術的な宗教の中心には、儀式がありました。彼らは皆、女性の姿を持ち、豊穣とたくさんの子供を祈る儀式を行っていました。狩猟、採集、農耕において女性は非常に重要であり、初期の農耕民は母系社会の傾向にあったと思われます。また、大地の重要性は他の追随を許さず、女性の像が大地母神像として広く認識されました。

 自給自足の考えから、住居、衣服、収納・調理器具、農具、武器などが作られました。しかし、早くから遠方との交易が始まり、それに伴い文化も伝播していきました。西アジアでは黒曜石の需要が高く、キクラデス諸島、シチリア島、サルデーニャ島などから運ばれてきました。また、北欧の琥珀も貴重な宝石でした。紀元前7世紀には、西アジアにもたらされました。紀元前5世紀には、初めて彩文土器が作られ、簡単な銅器や青銅器も使われるようになりました。紀元前6000年頃、イランからアナトリアにかけて彩色土器が使われており、中国では「彩陶」と呼ばれています。動物や狩猟の絵から、当時の文化がわかります。石器がより繊細になったのもこの頃です。働ける人が増えると、農作業以外の仕事もするようになり、それを専門とする職人も増えていきました。また、死者の埋葬の仕方から、いかに早くから共同体の中で権力が確立していたかがわかります。人権、私有財産、商業などの考え方も、時代とともに発展していきました。西アジアなどで発見された印章は、この事実を示しています。

 紀元前5000年頃にバルカン半島で作られた銅と金の製品は、私達が知る限り最も古い金属加工品です。この2つの金属が最初に使われたのは、地中から簡単に取り出せて広められたからだと思われます。紀元前5千年紀の後半になると、人々は鉱石を溶かして金属を取り出す方法を学びました。最初は陶芸用の窯が使われていました。紀元前3000年頃には、銅と錫を混ぜると青銅がより頑丈なものになると知られていました。錫は西アジアや地中海沿岸では採れないので、イギリスやイベリア半島西部から交易で手に入れる必要がありました。中国も青銅で独自の文化を作っていました。

 初期の農耕文化は広い範囲で発展し、ある地域ではより高度な技術が他の地域にも伝播していったのは確かです。紀元前3000年頃、ユーラシア大陸やアフリカ大陸の沿岸部や大河のほとりの肥沃な土地に農耕・牧畜文化圏が成立しました。そこでは、磨き上げられた石器や、色彩や彫刻が施された土器が並ぶ新石器時代の文化が発展しました。特にナイル川、ティグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河・長江流域は肥沃な土地に恵まれ、農耕牧畜文化の中心地となり、いわゆる世界四大文明が誕生しました。西アジアでは、ティグリス川やユーフラテス川のほとりで、どこよりも早く灌漑農業が始まりました。その結果、小さな農村から神殿を中心とした都市へと発展していきました。

 一方、バルカン半島から、ヨーロッパに農耕技術が広がりました。犬、豚、牛、羊、山羊などが家畜として飼われ、土器も盛んにつくられました。特に、バルト海からシベリアにかけての地域は、寒冷で森林が多く、農耕には不向きな地域です。そこで、骨角器や土器、磨製石器などを多用した新石器文化に似た採集・狩猟・漁労を中心とした生活様式が発達しました。日本の縄文文化は、この地域から生まれたと考えられています。中央アジアから北アフリカにかけてのステップ地帯には、細かい石器を使う原始的な遊牧民の新石器文化が存在しました。これらの遊牧民は、ほとんどの場合、天空の神を崇拝し、その社会は非常に支配的な場合が少なくありません。農耕民族と遊牧民は、しばしば協力して物資の交易や襲撃を行いました。結局、遊牧民は農耕地に入り、そこを占領し、定住する場合がほとんどでした。

ヨーロッパの巨石建築

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巨石建築

 フランス、イベリア半島、ブリテン島の人類は、紀元前3千年紀以降にストーンサークル、メンヒル、ドルメンなどの巨石建造物を多数建設しました。その代表例がブリテン島のストーンヘンジです。リング状の礎石や列柱は天文学と関係があり、広い範囲の儀式が行われる場所だったかもしれません。フランスのブルターニュ地方にあるカルナックには、1167メートルの石が11本の直線で設置されています。

ストーンヘンジ

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 イギリスのソールズベリには、巨石建造物があります。紀元前2000年頃に建てられました。直径100メートルの柱石の輪と、直径22メートルの立石の輪で構成されています。輪の開口部は夏至の日の出を向いています。このため、天文関係の儀式に利用されていた様子がうかがえます。

カルナック

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 フランスのブルターニュ地方にある新石器時代から青銅器時代にかけての遺跡です。3列の石列からなり、最大のものは11列、1169個の石があり、幅100m、長さ1167mあります。ストーンヘンジと同様、天文学と関係していると考えられています。

人種と言語の分化

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 人類が世界中を移動し、それぞれの地域の自然環境に適応していく中で、外見の違いや人種の違いが生まれました。人の皮膚や眼球が見つかっていないため、人種がどのように生まれたかを解明されていません。身長などの特徴でいえば、イタリアのコンブ・カペル型とフランスなどのクロマニョン型では、それぞれ異なります。ところが、アフリカでは、1万年以上前の古い骨格は見つかっていません。一方、周口店上洞人は、現代の中国人やメラネシア人に似た骨を残しています。それとともに、世界中を移動しながら人々の生活や文化が変化・発展し、多くの言語族や民族が形成されました。

 人種とは、身長、頭の形、肌の色、髪の色、目の色、血液型などの身体的特徴によって、人類を集団に分ける方法です。大きく分けて3つのタイプがあります。白色人種(コーカソイド)・黄色人種(モンゴロイド)・黒色人種(ネグロイド)です。人種は文化とは関係なく、また優劣とも関係ありません。しかし、歴史上、ある人種が他の人種に支配され、優劣が主張され、差別の理由に利用される場面がしばしばありました。語族とは本来、言語を分類するためのものですが、歴史家達はこの言葉を、全員が同じ言語を話す人々の集団を表すのにも使っています。民族とは、宗教や社会的規範など、同じ文化的伝統を共有する人々の集まりを指す言葉です。民族を決定する上で最も重要な要素は言語です。人間社会の発展に伴い、多くの人種や民族が互いに接触するようになりました。その結果、ある集団が他の集団を支配したり、混血したり、一つの国が複数の人種や民族を支配したりと、様々な問題が発生しました。

資料出所

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山川出版社『改訂版 詳説世界史研究』木村端二ほか編著

※現在市販されている最新版ではありません。前版の書籍になります。