高等学校世界史探究/第一次世界大戦とロシア革命Ⅰ

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 第一次世界大戦とロシア革命Ⅰでは、第1次世界大戦が発生した原因とその結果、第1次世界大戦間の外交について学びます。

バルカン半島の危機編集

 20世紀初め、ヨーロッパでは列強間の緊張が高まり、大きな戦争が起こるかもしれないと言われていました。それは主にバルカン半島に関する出来事でした。オスマン帝国が崩壊したからこそ、この地域は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるくらいに緊張状態になりました。バルカン半島でヨーロッパ各国の利害が直接ぶつかり合う可能性がますます高まってきました。日露戦争に敗れたロシアがバルカン半島に目を向けると、現地の情勢は予想出来なくなりました。以降、オーストリア・ハンガリー、セルビア、ロシアがこの地域で対立するようになりました。オーストリア・ハンガリーは、パン・スラブ主義が自国のスラヴ系諸民族に影響を及ぼし、分離・独立運動が活発化しないかを心配していました。このため、バルカン半島でセルビアをはじめとするスラヴ系諸国が強まるのを抑えようとしました。また、ドイツは世界政策の中で、中欧からバルカン半島まで支配地域を拡大し、ドイツ国民の連帯を呼びかけるパン・ゲルマン主義が推進されました。1908年夏、オスマン帝国で青年トルコ革命が起こって混乱し始めると、オーストリア・ハンガリーは行政管理権を与えられていたボスニア・ヘルツェゴヴィナを大胆に併合してしまいました。ブルガリアもオスマン帝国から独立しました。南スラヴ系の住民がボスニア・ヘルツェゴヴィナに多く住んでいます。セルビアが編入を希望したのは、南スラヴの味方になりたいからでした。オーストリアに反発したセルビアは、スラヴ世界の味方と考えるロシアに助けを求めようとしました。

 
イタリア・トルコ戦争の戦局図

 1911年、列強が第二次モロッコ戦争に注目していた頃、イタリアは、トリポリ市民の保護を目的に、イタリア=トルコ戦争を始めました。1912年スイスのローザンヌで行われた講和会議の後、イタリアは北アフリカのトリポリ、キレナイカを支配下に治めました。この戦争に動揺したバルカン諸国は、1912年にセルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシアがバルカン同盟を結成してオスマン帝国と戦争しました(第1次バルカン戦争)。オーストリアは、セルビアがロシアの助けを借りてアドリア海に進出する計画に大反対しました。このため、ロシアもオーストリアも国境近くに大軍を築きました。いつ危機が起こってもおかしくありませんでした。しかし、イギリスがロシアに圧力をかけ、ドイツがオーストリアを止めたので、危機は起こりませんでした。

 オスマン帝国は、1913年5月のロンドン条約で、イスタンブール周辺を除くバルカン半島の大部分を手放しました。しかし、今度はオスマン帝国から獲得したマケドニア地方の領有権を巡って、セルビアとブルガリアが争い始めました。ギリシア・モンテネグロ・オスマン帝国・ルーマニアはセルビアに味方しました。第2次バルカン戦争に敗れたブルガリアは、1913年8月に締結された条約で、マケドニアなどの土地を手放しました。この敗戦により、ブルガリアとオスマン帝国はドイツと手を組む可能性が高まりました。

第一次世界大戦の勃発編集

 1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の王位継承者フランツ・フェルディナント皇太子とその妻がサラエボでセルビア人に暗殺されました。ドイツの支援を受けたオーストリアは、セルビアに厳しい最終通告を出して、ほとんど主権を奪ってしまいました。要人暗殺事件が当時のヨーロッパで頻発していたため、外交交渉で危機を解決出来ると考える人も大勢いました。第一次バルカン戦争で、イギリスとドイツは、ロシアとオーストリアを戦争に巻き込まないようにしました。

 しかし、ロシアにとってセルビアを諦めると、大国としての信用を失います。国内で議会の力を取り除き、皇帝権力を維持したニコライ2世にとって、大国の信用を失えば、政権危機にもつながる可能性もありました。ロシアが総動員令を出すと、ドイツは宣戦布告しました。こうして1914年8月1日、第一次世界大戦が始まりました。

 ドイツはまず西側に兵力の大半を投入して、ロシアとフランスの両方同時に戦わなくても済むように、パリを速やかに陥落させる計画を立てました(シュリーフェン計画)。つまり、中立国ベルギーへの進軍を意味しました。ベルギーへの侵攻は、イギリスが対ドイツ戦争に参戦する理由となりました。ドイツは1914年9月のマルヌの戦いで敗北すると、パリへの進撃は終わりました。それ以来、西部戦線では塹壕戦が中心となりました。1914年8月、パウル・フォン・ヒンデンブルグ率いるドイツ軍は、東プロイセンのタンネンベルクの戦いでロシア軍を破りました。その後、ドイツ軍はポーランドを含むロシアに入り、そこでロシア軍と戦争しました。しかし、ロシアは広大な国土を持ち、輸送手段も悪いため、戦争の結末がどうなるか見通せなくなっていました。そのため、ドイツはロシアとフランスを同時に相手にしなければならず、最悪の結果になりました。

 極東では、1914年8月23日、日英同盟を理由に日本がドイツと戦争に踏み切りました。日本が極東で戦争に参加したのは、第一次世界大戦をヨーロッパだけの戦争ではなく、「世界」の戦争にするための大きな一歩となりました。1917年4月からアメリカが参戦しました。しかし、戦争の中心地は、ヨーロッパ・カフカス周辺・アフリカ周辺でした。

 当初戦争に参加しないと言っていた国も、後に連合国(イギリス・フランス・ロシア)側か同盟国(ドイツ・オーストリア)側に加わりました。長い間ドイツの友好国だったオスマン帝国は、1914年11月に同盟国側へ加わりました。オーストリアとの土地問題で中立を保っていたイタリアは、1915年5月になると三国同盟を破棄して、連合国側に加わりました。ブルガリアは1915年10月に同盟国に加わりました。スウェーデン・ノルウェー・デンマーク・スペイン・スイス・オランダは、ヨーロッパ諸国の中で唯一、戦争が終わるまでどちらにも入らなかった主要な国でした。

総力戦と戦時外交編集

 第一次世界大戦以前の戦争は、プロイセン・フランス戦争のように僅か数箇月の短期戦でした。前線ではなく後方にいる一般市民の生活は、あまり変わりませんでした。第一次世界大戦が始まった当初も、ほとんどの一般人は数箇月で終わると考えていました。しかし、第一次世界大戦は長期間に渡って繰り広げられ、総力戦となりました。結局、一般人の予想ではなく、各国の軍部指導者内の予想が当たりました。

 戦争が長引いた理由の一つに、産業の高度な発展が挙げられます。1870年代に入って、第二次産業革命が起こりました。石油や電気などの新しい動力源が広まるとともに、重化学工業が発展するようになりました。このような状況の中で、ヨーロッパ各国は産業力を最大限に活用出来たので、戦争の継続が非常にやりやすくなりました。

 また、国家は、産業を総動員出来るように、国民の生活様式を変えていきました。戦前のヨーロッパは「郷に入っては郷に従え」的な考え方(自由放任主義)でした。しかし、開戦後は政府が経済を規制して、国民生活の様々な領域に関与するようになりました。国営企業だけでなく、民間企業も政府の管理下に置いて、原材料の流通や発注の仕方などを統制しました。政府は労働市場も支配しており、労働義務の導入からも明らかでした。イギリス帝国の海軍によって海上封鎖されたドイツでは、深刻な食糧不足に見舞われました。このため、食料をはじめとする生活必需品の価格と配給が厳しく行われました。当時、このように政府が経済のあらゆる面を管理する状況を国家資本主義や戦争社会主義といいました。このような総動員体制は、1916年8月にパウル・フォン・ヒンデンブルグエーリヒ・ルーデンドルフ軍部独裁体制を敷いたドイツで上手く機能しました。イギリスでも、1917年12月に軍需相のデビッド・ロイド・ジョージ挙国一致内閣の首相になりました。彼は、動員に関わる5人の閣僚からなる戦時内閣を組織しました。他国でも同じような制度がありました。女性は男性のいない仕事を埋めるために、工場、電信交換手、トラクターの運転手、警官など、より幅広い分野で働けました。

 第一次世界大戦の長期化には、塹壕戦の普及も大きく関係しています。機関銃の登場により、肉弾戦が難しくなりました。そこで西部戦線では、塹壕を掘って何度も往復して戦う作戦が中心でした。多数の兵士が負傷しても、すぐに後方から鉄道やトラックで交代出来るので、塹壕戦も実現出来ました。しかし、東部戦線では、地盤が弱かったため、塹壕戦はそれほど広まりませんでした。

 塹壕戦で前線が動かなくなると、その状況を打ち破るために新しい兵器が作られるようになりました。1915年4月、西部戦線のイープルの戦いで、ドイツ軍は毒ガスを使って遠距離から塹壕を攻撃しました。マスタードガスの通称「イペリット」は、この地名に由来しています。また、塹壕に張り巡らされた有刺鉄線を破るために、装甲戦車が作られました。イギリス軍が初めて使用したのは、1916年6月に始まったソンムの戦いです。1916年2月から12月にかけて、ヴェルダン要塞の包囲戦で70万人のフランス・ドイツ兵が戦死しました。

 大砲の射程距離を長くして、偵察や爆撃のための新兵器として飛行機が登場しました。「空中での戦争」は、第一次世界大戦の目新しさを表し、当時、飛行機は戦争画の素材として人気がありました。また、ドイツはイギリス帝国による海上封鎖に対抗するため、潜水艦を投入しました。

 精神医療も塹壕戦がきっかけで発達しました。塹壕にいた兵士は、近くに砲弾が落ちるととても怖がり、雨が降るとずぶ濡れになります。過酷な環境でストレスを受けた兵士の多くは、手足が動かなくなる「戦場ショック」と呼ばれる症状に見舞われました。このような患者が大勢いたため、精神疾患は個人の特性ではなく、環境によって引き起こされると考えられるようになりました。

 第一次世界大戦によって、人も物も大きく移動しました。故郷を離れ、他国に移住すると、人々の価値観は大きく変化しました。戦場となったポーランドなどを離れなければならなかったポーランド人・ユダヤ人・ウクライナ人・ラトヴィア人などの難民が、ロシア内陸部に流れ込みました。1917年1月現在、ロシア帝国の難民登録者数は490万人でしたが、実際はもっと多い可能性もあります。故郷を追われた人々はナショナリズム(民族主義)を強め、ナショナリズムに基づき他の難民の救済事業が行われるようになりました。これが、ロシア革命後に形成された独立国家の基礎となりました。

 第一次世界大戦中、フランスはアフリカやインドシナの植民地から80〜90万人の兵士を戦地や労働のために送り出しました。植民地の人々は戦争に参加しながら、その様子を確かめる中で、これまで教えられてきたような白人は特別な存在ではなく、殺害出来る存在だと知りました。こうして、戦後、植民地の人々が権利の問題をどのように考えるか、その舞台が整えられました。労働者の確保は、複数の国で行われていました。ヨーロッパ諸国は、中国人労働者を雇って、様々な前線で塹壕を掘るなどの仕事をさせました。

 
1916年のサイクス・ピコ協定は、フランスとイギリスの影響力と支配力を持つ区域を決定しました。

 当初、第一次世界大戦の目標ははっきりしていませんでした。そのため、ドイツがベルギーに侵攻した時やオーストリアがセルビアに圧力をかけた時など、「小民族の防衛」が持ち出される場合もありました。しかし、それは建前に過ぎませんでした。実際は、各国が領土拡張と賠償金目当てでした。「小民族」の自決は、決して真剣に検討されませんでした。各国は、他国が困っている時や戦争で協力してもらうために、自治や独立を空約束しただけです。そうした約束と並行して、勢力圏の分け方を変える秘密外交が水面下で進められていました。イタリアが連合国側で戦ったのは、ロンドン秘密条約でオーストリアの「未回収のイタリア」をイタリアへ渡すとされたからです。1916年5月、イギリス・フランス・ロシアはペトログラードで、オスマン帝国をどう分割するかについて話し合いました。彼らはサイクス・ピコ協定に合意して、パレスチナを国際管理地域としました。アルメニアは約束としてロシアに渡しました。1915年、イギリスもフセイン・マクマホン協定で、オスマン帝国内のアラブ人を味方につけるために、アラブ民族運動指導者と独立国家建設を約束しました。また、11月17日には、イギリスのアーサー・バルフォア外相がパレスチナにユダヤ人居住地を建設するのを認めました(バルフォア宣言)。つまり、イギリスは大国の間で、アラブ人とユダヤ人の双方にパレスチナでの国家建設を約束する取引を行いましたが、実現しませんでした。結局、これがパレスチナ問題の直接の原因となりました。

アメリカの参戦編集

 秘密外交が批判されたのは、旧世界の中心だったヨーロッパではなく、その外側でした。例えば、1917年3月(ロシア暦2月)に革命ロシアが皇帝政権を倒した時、無併合・無金利・民族自決を基本とした民主的平和を呼びかける声が上がりました。もう1つは、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領による計画です。中立国アメリカは、連合国と経済的に密接な関係を保っていましたが、1915年5月にドイツの潜水艦がイギリスの客船ルシタニア号を沈め、乗っていた多くのアメリカ人が亡くなると、アメリカ国内で反ドイツ感情が高まりました。1917年2月、ドイツは潜水艦を派遣し、中立国を無制限に攻撃するようになりました(無制限潜水艦作戦)。1917年4月、ウッドロウ・ヴィルソンは第一次世界大戦の連合国側に参加しました。

 理想主義者のウッドロウ・ウィルソンは、第一次世界大戦の参戦は、戦争を終わらせ、誰にとっても公平な平和を実現しなければならないと考えていました。1918年1月に発表された十四箇条の平和原則は、彼の考えを明確に表していました。秘密外交をやめて、国際的な平和組織をつくり、植民地問題を公平に解決しようと考えました。実際、十四箇条の中には、「民族自決」という言葉は使われていません。ポーランドの独立は支持しましたが、オーストリア・ハンガリー帝国やオスマン帝国の支配下で暮らす人々の「自治」の可能性を語っただけでした。しかし、アメリカを反帝国主義だと思った世界中の植民地や中国などの従属的地域の人々は、十四箇条を非植民地支配と判断したので歓迎しました。

 十四箇条によって最も影響を受けたのはオーストリア=ハンガリー側でした。チェコ人やスロヴァキア人などの非ドイツ系民族は、当初は帝国内での自治を望んでいました。しかし、十四箇条は、より強く独立を求める姿勢を見せるように働きかけました。なぜなら、ウィーン政府がドイツへの依存度を高めるとともに、勝っても負けても、このままだと戦後のドイツが力をつけてしまうと思われたからです。

 1917年11月、ソヴィエト=ロシア(ロシア革命政府)が成立しました。1918年3月、同盟国側は、ソヴィエト・ロシアとの間で、ブレスト=リトフスク講和条約を結んで、東部戦線での戦闘を終わらせました。しかし、東部戦線の兵力を西部戦線に移しても、ドイツは物資不足のため、戦争に勝てませんでした。連合国はアメリカの支援を受けて、8月18日に西部戦線でドイツ軍に猛攻撃を加えました。9月にブルガリア、10月にオスマン帝国が敗北すると、10月末にはオーストリア・ハンガリーも解体されました。ドイツ軍はもはや勝てそうにないので、議会指導者に権力を与えて、アメリカ大統領と休戦交渉を始めました。しかし、大きな戦闘を経験しなかった海軍の首脳陣は、最終的に出動命令を出しました。11月3日、キール軍港で、以前から待遇に不満を持っていた水兵が立ち上がりました。すぐに平和を求めた水兵の反乱は、全国に広がる革命運動へと発展していきました。11月10日、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、同国の君主達はその座を明け渡しました。1918年11月11日、新共和国政府と連合国は、コンビ工-ヌの森で第一次世界大戦を終わらせるための休戦協定に調印しました。

大戦の結果編集

 第一次世界大戦前のヨーロッパは文明の頂点に立ち、そこに住む人々はそれを誇りにしていました。軍事力や経済力だけでなく、政治体制や文化の面でも、ヨーロッパは文明の最先端を行っていると、世界中から思われていました。しかし、4年半もかかった第一次世界大戦は、この考えを完全に破壊してしまいました。戦争の残酷さに耐えられなくなったように見えたヨーロッパ人同士が武器を取り合い、残虐な殺し合いをするようになりました。戦争が終わる頃、文明の頂点という美しいイメージは完全に崩れてしまいました。

 軍事的にも経済的にも、ヨーロッパは戦場となって疲弊しており、それは敗戦国、勝利国のどちらにも当てはまりました。イギリスは相変わらず世界政治で最も重要な国なので、イギリスとフランスは帝国の支配を維持しました。しかし、すでに述べたように、植民地の人々は自らの体験から、ヨーロッパ人が自分達と同じような人間だと知りました。そのため、彼らは自分達の力で独立しようという決意を固めました。

 ヨーロッパの地位が低下すると同時期に、国際政治で新しい勢力が重要視されるようになりました。まず、アメリカは債務国から債権国に切り替わり、国土は無傷で力をつけていきます。ソヴィエト=ロシアも戦争、革命、内戦で経済が衰えましたが、資本主義、帝国主義を強く批判する国として生まれ変わりました。日本もアジア太平洋地域で勢力を伸ばし、世界の中で唯一白人でない強国となりました。総じて第一次世界大戦は、ヨーロッパー極支配から多極化支配へと世界を変えました。

資料出所編集

  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 最新版と旧版両方を含みます。
  • 実教出版株式会社『世界史B 新訂版』木畑洋一ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』