高等学校世界史探究/第一次世界大戦とロシア革命Ⅱ

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 第一次世界大戦とロシア革命Ⅱでは、第一次世界大戦中のロシア内部の動向について学びます。

ロシア革命 編集

 
二月革命

 第一次世界大戦が始まると、ボルシェヴィキとメンシェヴィキを除くロシア国会議員が、戦争に勝つために政府とともに行動しました。戦争の前半では、ロシアはタンネンベルクの戦いで敗れました。1915年の春から夏にかけて、ロシアはガリシアとポーランドでも大敗したため、挙国一致体制が大きく揺らいでしまいました。1916年夏、労働運動が再び盛んになると、中央アジアの諸民族が動員への抗議のために立ち上がりました。鉄道などの交通網の整備も不十分で、食糧や燃料を都市部に運べず、ロシア帝国北西端の首都ペトログラードではさらに状況が悪化していました。革命は、自然発生的な大衆運動から始まりました。1917年3月8日、国際婦人デーに、ペトログラードの女性労働者が「パンをよこせ」というデモを始めました。これが全市的なゼネストに発展して、人々は専制政治の廃止と平和を訴えました。これに兵士が加わり、各地で労働者ソビエト、兵士ソビエトが結成されました。ソビエトの動向に危機感を抱いた国会は、自由主義諸党派を中心とした臨時政府を発足させて、皇帝ニコライ2世を追い出しました(二月革命)。臨時政府によって、ロシアは自由な共和国となりました。多数派を占めていたメンシェジキと労兵ソビエトの協力で、政治犯の釈放、言論、集会、結社の自由が認められ、身分、宗教、民族制限もなくなりました。しかし、臨時政府は、帝国主義ではなく、連合国側に就いて第一次世界大戦に勝ちたいと考えていました。一方、労働者や兵士の支持を受けた社会主義者は、ペトログラードなどにソビエト(評議会)を組織しました。この評議会は、工場や部隊の代表として派遣された労働者や兵士で成り立っていました。1905年の革命でも、ソビエトは独自に組織されました。5月になると、社会主義者と自由主義者が集まって、本格的な連立政権をつくりました。その目標は、民主的改革と戦争継続でした。

 しかし、同時に両立は出来ませんでした。仕事が嫌になった労働者は工場経営に関わり、土地を持たなかった農民は土地の買収を争い、戦意喪失に巻き込まれた兵士は大量に戦線離脱していきました。民衆の怒りに最初に反応したのは、社会主義者の急進的集団ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党)でした。4月にスイスから帰国した指導者ウラジーミル・レーニンは、臨時政府の崩壊と社会主義政権の樹立を求める四月テーゼを発表しました。また、ウラジーミル・レーニンは、「ソビエトに全権を」というスローガンのもと、各地にソビエトを基礎とした人民階級が支配する「ソビエト共和国」の建設を目指しました。ウラジーミル・レーニンは、世界大戦が資本主義の滅亡を示し、ロシアで社会主義革命が起これば、ヨーロッパの先進国の労働者が参加する世界革命が起こると考えていました。

 7月初め、ボルシェヴィキの蜂起は失敗して、ボルシェヴィキの政党は一時的に鎮圧されました。臨時政府は、社会主義革命党のアレクサンドル・ケレンスキーを首相に就任させて、圧政を一層強化しようとしました。しかし、8月末、最高司令官ラーヴル・コルニーロフは、アレクサンドル・ケレンスキーと口論して挙兵しました。その結果、これを無くす過程で、ボルシェヴィキの勢力が再拡大しました。11月7日(ロシア暦10月25日)、ウラジーミル・レーニンやレフ・トロツキーが指導する兵士と労働者が臨時政府を武力で倒し、政権を握りました。11月8日、11月9日の全ロシア=ソビエト会議では、ウラジーミル・レーニンが執筆した「労働者、兵士、農民諸君へ」「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択しました。全ロシア=ソビエト会議は、ボルシェヴィキのほか、社会革命党左派が多数を占めました。「平和に関する布告」は、無併合、無償金、民族自決の原則に基づき、すぐにでも平和を実現するように求めました。また、秘密条約の公表を約束しました。「土地に関する布告」では、地主の土地は金を払わずに奪ってよい、などと書いてありました。このようにして、ソビエト政権は、二月革命以来、国民が解決しようとしてきた平和と土地の問題に対して、解決の糸口を見せました。これが十月革命(十一月革命)です。

ロシア革命の主要政党
 ロシアでは、1905年の十月宣言によって、結社の自由が認められ、政党を作れるようになりました。立憲民主党は、弁護士や改革派貴族などの自由主義者が作った政党(カデット)でした。十月十七日同盟は、地主を中心としたより穏健な自由主義者が作った政党(オクチャブリスト)でした。一方、社会主義者は十月宣言で政党の結成を認められる以前から、違法に政党を結成していました。1898年に結成されたロシア社会民主労働党は、工場労働者を中心に支持されていました。1903年、職業革命家を中心としたボルシェヴィキと大衆政党を中心としたメンシェヴィキに分かれました。ボルシェヴィキは「多数派」、メンシェヴィキは「少数派」を意味しますが、それぞれ内部分裂しており、実態を表していませんでした。1902年に発足した社会主義=革命党(エスエル)は、農村共同体を中心とした独自の社会主義を目指していました。よく、この党を「社会革命党」と呼ぶ人がいますが、その呼び方は正しくありません。


ソビエト政権と戦時共産主義 編集

 ウラジーミル・レーニンは、ヨーロッパで革命が起きると思っていましたが、結局起きませんでした。しかし、ボリシェヴィキは支配権を譲りませんでした。何とかヨーロッパ革命まで政権を維持しようというのが、当時のソビエト政権の計画でした。1918年1月、憲法制定議会が召集されました。当初、臨時政府は二月革命の際に開催する約束をしていました。選挙では、住民の大多数を占める農民が、他のどの政党よりもエスエルに投票しました。憲法制定議会は十月革命に納得しなかったので、ボリシェヴィキは武力で解散させなければなりませんでした。1918年3月、連合国同士がブレスト=リトフスク条約を結び、ソビエト政権は第一次世界大戦から少し遅れながら、勝てなくなったので離脱しました。その代償は、ウクライナを含む多くの領土と多額の賠償金でした。首都もより安全な内陸部のモスクワに移されました。ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)は、ヨーロッパの社会民主主義とは違うという意味を込めて、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)と改称しました。当初、ソビエト政府はボリシェヴィキだけが主導権を握っていました。1917年12月、左翼のエスエル派と連立政権が成立しました。一方、左派のエスエルは、ドイツに対する革命戦争を呼びかけ、ブレスト・リトフスク条約に反対していました。1918年3月、エスエルは連立を離脱しました。1918年7月、左派のエスエルがドイツ大使を殺害して、モスクワで反乱を起こしました。これは、ソビエト政権を倒すためではなく、共産党をドイツとの革命戦争に巻き込むためでした。しかし、この反乱は共産党に鎮圧されました。

 1918年春、チェコスロヴァキア軍団の反乱によって、共産党と十月革命を支持しない勢力の間で内戦が始まりました。軍団は最初、オーストリア帝国を離れた兵士で結成されました。彼らはシベリア鉄道でウラジオストクに向かい、西部戦線に向かうはずでした。しかし、彼らはウラル山脈の麓でソビエト当局と戦い、5月に軍団から離れました。チェコスロヴァキア軍団を救うという建前で、日本を含む連合国はロシアに出向き、干渉戦争を始めました。

 共産党は、大きな軍事陣営のような中央集権的体制を整えて、内戦と介入戦争を戦い抜きました。左翼エスエルの反乱を鎮圧する前に、エスエルとメンシェヴィキの両方がソビエトから追い出されました。そうして、内戦中に共産党が国を支配して、一党独裁体制にしました。これは、単に共産党が政権を運営する体制ではありませんでした。党組織が国家機構や社会団体の中心になり、その思想が政府や社会の全てを支配するという、全く独自の体制でした。共産党中央委員会の指示で、反市場経済統制が行われ、チェーカー(非常委員会)が政治的異論や反革命活動を厳しく取り締まり、レフ・トロツキーは赤軍を発足させました。

 1919年春、世界革命を目指す国際共産党組織コミンテルン(第3インターナショナル)が発足しました。同時期、ハンガリーでは共産党のクン・ベーラが政権を握りますが、わずか半年で崩壊しました。1920年、ポーランドがソビエトロシアに侵攻しました。共産党は反撃しましたが、赤軍がワルシャワを占領しようとしたため、失敗に終わりました。

 ウラジーミル・レーニンは、1920年代にソビエトロシアで作られた社会主義体制を「戦時共産主義」と名付けました。それは、戦時中のドイツ経済の運営方法から色々学びました。また、1920年代後半からヨシフ・スターリンが作り上げた社会主義体制の第一歩でもありました。統制された権威主義的な体制をとりながらも、民衆層から多くの人材が集められました。こうした総力戦体制が、社会の平準化や民主化のために機能した一つの方法でした。

ネップとソ連の成立 編集

 1920年の終わり頃までに、共産主義者側がロシア内戦に勝利します。連合国による介入は、国内での抗議行動により中断されました。しかし、共産党は経済支配を緩めませんでした。反対に、市場原理を完全になくすような政策を強化しました。

その結果、民衆は反乱を起こして、農村で騒動を起こすようになりました。1921年の春、モスクワやペトログラードでも反政府デモが起こり、水兵反乱が軍港クロンシュタットで起こりました。ウラジーミル・レーニンはクロンシュタット蜂起を厳しく抑えました。しかし、第10回共産党大会で、市場原理を部分的に復活させる方針を決定しました。これが新経済政策(NEP)の始まりです。NEPのもとで、市場原理は少しずつ復活して、ネップマンと呼ばれる富裕層も育ちました。

 内戦中、共産党は旧ロシア帝国の各地に出来た民族政権を崩壊させました。しかし、占領した地域をソビエト・ロシアに吸収合併をせずに、理論上、独自の国家を再び作り上げました。これは、共産党が無意味に地方のナショナリズムを煽りたくないからでした。1922年12月、ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカースの各ソビエト共和国は、ソビエト=ロシアと同盟を結びました。これが、ソビエト社会主義共和国連邦の始まりです。各国は主権国家として考えられていました。しかし、モスクワの共産党中央委員会が実際に全てを仕切っていました。

ソ連の民族政策
執筆中


資料出所 編集

  • 山川出版社『詳説世界史研究』木村端二ほか編著 ※最新版と旧版両方含みます。
  • 山川出版社『詳説世界史B』木村端二、岸本美緒ほか編著
  • 山川出版社『詳説世界史図録』