高等学校地理探究/西アジアと中央アジア

小学校・中学校・高等学校の学習>高等学校の学習>高等学校地理歴史>高等学校地理>高等学校地理探究>西アジアと中央アジア

 西アジア・中央アジアと日本は、他のアジアの地域ほど強い繋がりを持っていませんでした。しかし、西アジアは石油、中央アジアは天然ガスやレアメタルの重要な供給源です。いろいろな見方をしてみましょう。

位置と歴史的背景 編集

位置と国々 編集

 
西アジア・中央アジアの位置

 西アジアとは、アフガニスタンから地中海までの地域をいいます。中央アジアは、カフカス諸国(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)から北のパミール高原天山山脈までの地域です。面積はカザフスタンが最も大きく約270万㎢、サウジアラビアが2番目に大きく約220万㎢です。最も人口が多いのはイランとトルコで、それぞれ約8000万人です。次いでイラクとアフガニスタンがそれぞれ約3000万人です。西アジア・中央アジアは砂漠や山が多いため、人口密度は1㎢あたり38人程度とそれほど高くありません。しかし、人口増加率は比較的高く、今後も増加していく見込みです。

東西交易の要所 編集

 砂漠の多い西アジアや中央アジアでは、人は限られた場所にしか住めません。そのため、オアシスのような水のある場所に都市が作られました。遊牧と灌漑農業が盛んな西アジアや中央アジアの人々は、古くから交易や商業の場として都市を発達させました。これらの多くの都市は、中国とヨーロッパを結ぶシルクロードを初めとする陸上・海上の東西交易路の要所として重要な地位を占めました。19世紀末頃、西アジア諸国はイギリスとフランスに政治・経済的に支配されるようになりました。独立後も、石油資源は欧米企業が独占していました。

 
モスク

 人々の生活習慣や価値観から、都市が交易を中心に発展してきた様子が伝わってきます。バザールはアラビア語でスークとも呼ばれ、衣服や食器、農具、食料、香水などを販売する伝統的な市場です。バザールでは、商品の売買や情報交換が活発に行われています。街角にはイスラム教のモスクがあり、金曜日にはイスラム教徒が店を閉めてそこへお祈りに行きます。多くの外国人が行き交う街なので、そこに住む人々は異文化を受け入れて、おもてなしを大切にする文化があります。

 西アジアでは、河川やオアシスの周辺に大都市が発達しました。例えば、バグダッドはティグリス川やユーフラテス川のような大きな川の流域で発展しました。また、ダマスカスはレバノン山脈から流れ出る川の流域で発展しました。このように、都市を中心とした文明は、古代から中世にかけて支配したイスラム王朝の時代にも発展しました。

 中央アジアでも、ブハラやサマルカンドといった都市がシルクロードの拠点として発展しました。また、イスラム文化の中心地となり、現在も多くのモスク(イスラムの礼拝堂)やマドラサなどが残っています。さらに、カザフスタンの首都ヌルスルタンは、1990年代にソ連から独立して建設された都市です。ソ連が統治していた時代には、政治の中心は全て中央アジア諸国の首都に置かれていました。独立後は、自分達の都市を作り、ロシアの影響から離れようという動きが出てきています。しかし、古い都市基盤を維持するために多額の費用がかかるなど、問題も少なくありません。

自然環境 編集

地形 編集

 
ザグロス山脈とアラビア・ユーラシア両プレートの位置関係

 アラビアプレートは紅海とペルシャ湾の間にあります。アラビアプレートの北側でユーラシアプレートと合流しています。西アジアの新期造山帯がイランからトルコ、イランからアフガニスタンまで広がっています。ザグロス山脈はアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部になっています。ザグロス山脈以外にも標高5000m以上の高山は、上記地域内にあります。そのため、環太平洋造山帯に含まれる日本と同じように、地震多発地域でもあります。

 アラビア半島は、世界最大のルブアルハリ砂漠を中心とした安定陸塊です。アラビア半島の紅海に接した側は、ペルシャ湾に接した側よりも高い位置にあります。半島北部では、ティグリス川とユーフラテス川が農耕に適した肥沃な沖積平野を作っています。古生代から中生代にかけて、ペルシャ湾周辺の広い海域に溜まった厚さ数千mの地層があります。ペルシャ湾岸は、微生物の遺骸が集まった地層と微生物が作る石油を集める地層があるため、世界でも有数の石油資源が豊富な場所となっています。

 一方、中央アジアは、そのほとんどが古期造山帯や安定陸塊に含まれています。中央アジア北部は、-28mの高さにあるカスピ海からパミール高原や天山山脈の間にあります。パミール高原はインド半島の衝突時に隆起しました。

気候 編集

 
西アジア・中央アジアの気候

 西アジアも中央アジアも乾燥地域です。アラビア半島はほとんど砂漠で、亜熱帯の高気圧に覆われています。イラン北部が乾燥しているのは、内陸にあり、海からの湿った風があまり当たらないからです。また、イラン北部は山脈の風下にあるため、カヴィール砂漠やトルクメニスタンのカラクーム砂漠のような大きな砂漠があります。カザフスタン北部の気候はステップ気候で、カザフステップは肥沃なチェルノゼムのある草原です。地中海沿岸から南部のカスピ海、天山山脈北嶺までは地中海性気候です。

 乾燥地域では、死海のような塩湖が多く、そこに流れ込む川はありません。また、アラビア半島にはワジと呼ばれる涸れた川がたくさんあり、ラクダの商人や自動車の道路として利用されています。

農牧業 編集

伝統的灌漑農業 編集

 
カナートの仕組み

 乾燥地帯の多い西アジアや中央アジアでは、水は農耕のための貴重な資源です。砂漠でもオアシスと呼ばれる場所では、湧き水を利用して小麦・ナツメヤシ・西瓜・メロン・葡萄などを栽培しています。イランやアフガニスタンなどの砂漠地帯では、オアシス農業が行われています。山の麓にある地下水脈から水を汲み上げ、水を供給するためにカナートやカレーズが利用されています。カナートやカレーズは、水が蒸発しないように、山脈など地下水の多い場所から集落や農地まで掘られた地下水路です。地下水路は、緩やかに傾斜した横穴でつながっています。ほとんどの場合、土地を所有する投資家が、水も所有します。地下水路の掘削や管理には費用がかかるため、水の利用方法には厳しく決められており、小麦や綿花が栽培されています。イラクのメソポタミア平原では、外来河川ティグリス・ユーフラテス川を農作物の水源として利用されています。

遊牧地域 編集

 遊牧は、水不足で農耕が困難な地域で行われます。自然の草や水を求めて、住居や家畜を移動させる生活様式です。場所を変えながら飼育させると、草や木の芽を食べ尽くさずに済みます。

 
駱駝

 乾燥した地域では、乾燥に強い駱駝が飼われます。駱駝は荷物の運搬や乗り物として使われます。このほか、は草原で飼育されています。駱駝や羊の家畜から出る生乳が遊牧民の主食となります。余った生乳は塩を加えてチーズやバターにします。肉を食べると動物の数が減るので、休日やお祝い事など特別な日にしか食べません。木が育たず、燃やす木がないため、家畜の排泄物を燃料として利用します。家畜の毛や皮は、衣服やテントの材料として使われます。

 遊牧民は開かれたオアシスの町に行き、乳製品や皮、動物などを小麦やナツメヤシと交換して農民と交易を行ってきました。近年は国の定住政策によって、遊牧民も自動車を使い、新しい仕事を求めて都市に移動しています。

産油国の農業 編集

 ペルシャ湾の産油国は、石油を売って得たお金(オイルマネー)で、砂漠でも地下水を利用した農業や牧畜業に投資しています。1970年代、サウジアラビアでは、地下水を汲み上げてスプリンクラーで散水するセンターピボットを導入して小麦や野菜を栽培していました。1980年代には、小麦は国外に出荷されていました。しかし、1990年代以降、節水や補助金の打ち切りにより生産量は減りました。今では、国内消費分しか栽培していません。また、牛乳は空調で一定温度に保たれた室内牧場で作られています。

中央アジアの農業 編集

 
カラクーム運河

 中央アジアでは、外来河川のシルダリア川やアムダリア川の水を、昔から農作物の水やりに使ってきました。また、山岳の多い東部では、地下水路も農作業に利用されてきました。

 ソ連時代、中央アジアの乾燥した土地は、自然改造計画によって農地化されました。肥沃な土壌のチェルノゼムからなるカザフステップでは、企業的穀物農業地域に変わりました。さらに、トルクメニスタン南部の砂漠地帯には、アムダリア川から水を得るために世界最大の灌漑用運河であるカラクーム運河が建設されました。カラクーム運河は、アムダリア川とカスピ海を結ぶために建設された運河です。現在、トルクメニスタンのアシガバードの北西まで開通しています。その結果、広大な農地が生まれ、カザフスタンを中心に小麦の生産が増え、ウズベキスタンなどでは綿花の生産が伸びました。しかし、カザフステップでは、草地になっていたために保護されていた肥沃な表土が農地化によって流され、収穫量が落ちた場所もあります。塩害により、シルダリア川やアムダリア川流域の灌漑農地では作物が育たなくなりました。一方、アラル海の上流では無計画な灌漑によって、湖に入る水量が減り、ほとんどが干上がってしまいました。その結果、沿岸での漁業が出来なくなりました。湖水から出る塩分も乾いて近くの農地にまで広がりました。塩分を含んだ砂嵐は、そこに住む住民の健康被害をもたらしました。

鉱工業とサービス業 編集

世界最大の石油産出量 編集

産油量が増加するカスピ海沿岸諸国 編集

石油輸出依存経済からの転換 編集

淡水化技術と労働力の確保 編集

イスラム教と人々の生活 編集

イスラム教の教え 編集

 イスラム教は、アラビア半島で始まりました。現在、西アジア、中央アジア、東南アジア、北アフリカ、東南アジアで見られます。信仰がどの程度日常生活に浸透しているかは、地域によって異なります。しかし、イスラム教は世界中に広がり、ペルシャ(イラン)やトルコなどアラブではない国にも広がりました。その理由は、どんな人種や階級でも、イスラム教徒として平等だと感じられるようにしたからです。イスラム教の教義の平等性やイスラム文化の先進性など、イスラム教の発展を支えた要素があります。交易は、西アジアを中心とした当時の世界の貿易網を通じて広がっていきました。例えば、東西交易はシルクロードを通り、サハラ交易はサハラ砂漠を通り、インド洋交易はインド洋を通りました。こうしてみると、ムスラム商人が大きな役割を果たしていました。

三つの言語とイスラム教の分布 編集

 
イスラム教の分布図

 西アジアには様々な言語や宗教があり、様々な文化が存在しています。アラビア語は最初、アラビア半島の一部で話されていました。イスラム教が広まるにつれて、イラクから北アフリカへ広がりました。

 トルコではトルコ語を話し、政治と宗教が分離した時に、アラビア文字がラテン文字に置き換わりました。イランはペルシア語が話されている国で、ほとんどの人がシーア派イスラム教徒です。アラビア語とペルシア語は同じ書き方ですが、文法は大きく異なります。イラクの人口のほとんどはアラブ人ですが、クルド人など非アラブ人が20%ほどを占めています。イスラエルは国民のほとんどがユダヤ人で、言語も古代ヘブライ語がベースになっている国です。レバノンではキリスト教徒、イスラム教のスンナ派、シーア派が対立し、それぞれの人数に応じた国会議員の数が決められています。シリアではアラブ人が大半を占めますが、キリスト教のアルメニア人もいます。

 クルド人は、自分の国を持たない世界最大の民族です。彼らはトルコ、イラク、イランに住んでいます。アフガニスタンのように、様々な人種の人々が全員イスラム教を信仰している国もあります。このように、西アジアには様々な宗教と言語があります。

 イスラム教を信じ、アラビア語を話す人々は、これまで異民族や非イスラム教徒に支配されてきました。それを取り戻すために、アラブ人を一つの集団にまとめようとするアラブ民族主義運動が行われてきました。他の宗教でも、宗教を本来の理想的な姿に戻そうとする運動があります。中東では、イスラム政党が、貧富の差の拡大を食い止め、政府の腐敗を止める努力と政治活動を両立させ、大きな成果を上げています。1945年、アラブ系の人々の多いアラブ諸国が集まり、アラブ連盟を結成しました。その目的は、各国の独立を守り、絆を深めようとしたからです。一方、イスラム原理主義と呼ばれる過激派勢力を強めている地域もあります。シリアやイラクでは、政府と過激派組織イスラム国や反体制派との戦闘により、大勢の人々が故郷を離れています。これは国際問題になっています。

イスラム教と人々の生活 編集

 西アジアと中央アジアの人々は、どのように行動し、生活するかについて、イスラム教のルールに従わなければなりません。コーランは、アッラーが預言者ムハンマド(マホメット)に告げた内容を要約した聖典です。コーラン(クルアーン)は、アラビア語で書かれている場合だけ認められます。イスラム教は一神教なので、万能の神アッラーだけを信じています。アッラーは見えないので、偶像を崇拝してはいけません。また、イスラム教を始めた預言者ムハンマド(マホメット)は、信仰の対象になりません。

 イスラム教徒はただ神を信じるだけでなく、毎日、実際の方法で信仰を示さなければなりません。次の義務(五行)を守らなければなりません。

  1. 常に自分がイスラム教徒だと表明します。
  2. 1日5回祈ります。
  3. 貧しい人々にお金を与えます。
  4. ラマダーン(9月)には日の出から日没まで断食を行います。通常の1年は西暦より354日短いので、九曜の断食月の時期は年によって変わります。
  5. 一生に少なくとも1回は聖地メッカに巡礼しなければなりません。

 毎年、世界中からイスラム教徒が巡礼に訪れ、街はイスラム教徒で溢れかえっています。富裕層も貧困層も同じ白いローブを着て、カーバ神殿に巡礼に行きます。これは、人種や民族が信者を隔てない姿勢を示す大規模な宗教行事になっています。

 また、酒や豚肉の飲食禁止、汚いとされる左手での食事禁止、屋外に出る女性のみ肌の露出禁止など、日常生活にも厳しい制限があります。

ソ連の影響が残る中央アジアの文化 編集

 1990年代前半、中央アジアの国々はそれぞれ独立しました。中央アジアは、ペルシア語を話すタジキスタンを除き、ほとんどの国がトルコ語系言語を話します。しかし、これらの国の多くは、かつてソビエト連邦(ソ連)の一部となっていたため、今でもロシア語やキリル文字を使っています。

 国民の大多数はイスラム教徒ですが、正教のキリスト教徒もいます。トルコ系やイラン系の民族は羊を中心とした肉や乳製品を売っています。朝鮮民族はキムチを売っており、この地域の文化の多様性が感じられます。多くの人が信仰しているイスラム教ですが、ソ連時代では禁止されました。そのため、新たにマドラサ(イスラム神学校)を立ち上げてイスラム教育を推進しようという動きも見られます。

 このように、中央アジアの街並みは、イスラム風のオアシス都市とヨーロッパに建設されたような旧ソ連時代の都市とが共存しています。ソ連時代に農業の集団化(コルホーズ、ソフホーズ)が進んだ結果、農村部には遊牧民が定住し、かつての遊牧生活はほとんど見かけなくなりました。ウズベキスタンの首都タシケントは、中央アジア最大の都市として、長い歴史を持っています。当初はオアシス都市として発展しました。しかし、1966年の大地震の後、旧ソビエト連邦によって都市が再設計され、ヨーロッパ的な雰囲気を色濃く残す都市となりました。

民族紛争の歴史と課題 編集

ユダヤ人とアラブ人との対立 編集

 
パレスチナとイスラエルの国境線変化

 パレスチナ紛争(アラブ・イスラエル紛争)の歴史は古く、ユダヤ人が紀元前1500年頃にパレスチナに定住して国家を樹立した時から続いています。その後、ユダヤ人国家は滅亡して、ユダヤ人は各地に移住させられました(ディアスポラ)。19世紀後半、パレスチナにユダヤ人国家を再建しようとするシオニズム運動が活発になりました。その結果、より多くのユダヤ人がパレスチナに移り住むようになりました。第一次世界大戦中、イギリスはアラブ人とユダヤ人の協力を求め、アラブ人はトルコからの独立、ユダヤ人はユダヤ人国家を約束しました(バルフォア宣言)。この二重外交のため、パレスチナの主権をめぐる両者の主張が対立して、紛争に発展しました。

 第二次世界大戦後、国連はパレスチナ分割決議を採択して、パレスチナをアラブ国家とユダヤ人国家に分割しました。これを受けて、ユダヤ人はイスラエル国を建国しました。100万人以上のアラブ人がパレスチナから追い出されて難民となり、イスラエル建国に反対するアラブ諸国は互いに争うようになりました(第一次中東戦争)。さらに、パレスチナを奪還しようとするパレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)が結成され、それに対するイスラエルへの攻撃は激しくなりました。1993年、パレスチナ人は、対話による紛争終結への第一歩として、暫定自治に合意しました。しかし、紛争は解消されていません。現在、イスラエル側の和平推進派と対パレスチナ過激派、パレスチナ側の穏健派ファタハと過激派ハマスが、紛争の終結方法を巡って対立しています。国内にユダヤ人が住んでいるアメリカなどが仲介役となって和平への道を探ろうとしています。

国家をもてないクルド人 編集

 
クルドの位置

 クルド人は世界全体で約3000万人暮らしています。そのほとんどがスンニ派で、タルト語を話します。中世以降、オスマン帝国(オスマントルコ)がタルト人を支配していました。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れた後、イギリスとフランスがオスマン帝国を分割して、クルディスタンと呼ばれる居住地は中東諸国に広がりました。それ以来、タルト人と各国が独自の国家建設を目指す争いが増えました。全人口の5分の1にあたる1200万〜1500万人のタルト人が住むトルコでは、独立のための武装活動が活発になっています。

スタンのつく地域
 この地域では、ウズベキスタンやカザフスタンのように、「スタン」で終わる地名が少なくありません。スタンはペルシア語で「〜の国」という意味なので、ウズベキスタンの国という意味にも、カザフスタンの国という意味にもなります。ウズベキスタンやカザフスタンでは、多くの人がトルコ語を話しています。しかし、この地域には古くから異なる民族の人々が一緒に暮らしてきたため、トルコ語、ペルシア語、アラビア語を語源とする言葉がよく混在しています。