高等学校歴史総合/国際協調体制
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20世紀が始まるまで、戦争は国家間の対立を解決する最も効率的な方法の一つでした。しかし、人々の命を奪って、多くの命を奪った第一次世界大戦は、この考え方を大きく変えました。戦争に頼らずに国家間の問題を解決しようとする動きは、どのように始まったのでしょうか。
ヴェルサイユ体制とワシントン体制
編集第一次世界大戦の戦後処理については、1919年1月のパリ講和会議で話し合われました。戦勝国のイギリス、フランス、そしてウッドロウ・ウィルソン大統領を中心とするアメリカが会議の主導権を握っていました。この会議は、ヨーロッパの戦後秩序を整えるため、第一次世界大戦中にウッドロウ・ウィルソンが平和構想として示した「十四か条」を基本原則としました。しかし、イギリスとフランスはドイツを許しませんでした。ヴェルサイユ条約は敗戦国ドイツも結びましたが、その内容は懲罰的な内容でした。海外領土の譲渡、軍備の制限、莫大な賠償金の支払いなどです。また、他の敗戦国も和平協定を結びました。これらの条約は、ヴェルサイユ体制の基礎につながりました。ウッドロウ・ウィルソンは国際的な平和組織として国際連盟を作りました。しかし、アメリカは参加せず、ドイツとソ連は省かれたので、あまり機能しませんでした。
日本は南洋諸島をドイツから奪って、国際連盟に常任理事国として加盟すると、国際社会でより大きな力を持つようになりました。1921年から1922年にかけて、東アジアと太平洋の新しい運営方法を話し合うワシントン会議が開催されました。ワシントン会議は、アメリカ側の主導で開催しました。東アジア・太平洋地域の国際秩序(ワシントン体制)を整えて、日本の勢力拡大を防ぎました。中国の領土保全と主権の尊重を唱えた九か国条約は、このワシントン会議で調印されました。日中間の協議の結果、山東権益は中国に返還されました。日英同盟は、太平洋での状況を変えない四か国条約が締結されて終わりました。また、海軍軍縮条約によって、イギリス、アメリカ、日本の保有する主力艦の比率は、5:5:3になりました。しかし、日本は南洋諸島や中国東北部(満州)の利益を守りながら、アメリカとの関係を悪化させないように努めました。日本は、国際的な地位を高めようとする一方で、日系移民がアメリカから追い出されている問題に直面していました。このため、国際連盟の規約に人種差別撤廃の条項を加えようとしましたが、欧米諸国の反対で失敗しました。それ以降、日本国内では欧米主導の国際協調に反対する動きがありました。
国際協調の高まり
編集ヴェルサイユ体制、ワシントン体制で、国際協調の流れはますます強まりました。集団安全保障という考え方がよみがえったからです。その結果、国際連盟の創設やヨーロッパ諸国の国境の現状維持を取り決めたロカルノ条約に見られるように、戦争回避のための取り組みが始まりました。1928年になると、国家間の紛争を解決する手段として戦争を行うのは、パリ不戦条約の調印で禁止される方向になりました。日本もパリ不戦条約に調印して、合計63カ国が調印しました。
しかし、列強の利益は維持されており、植民地支配もその中に含まれていました。ヨーロッパでは、民族自決によって、8か国が新たに誕生しました。しかし、植民地では民族自決が行われなかったため、抑圧が続きました。自国の利益を最優先させようとする各国の思惑が、外交官同士の協調を難しくしていました。一方、第二次世界大戦後の植民地の解放・独立には、パリ不戦条約の理念が生かされました。日本国憲法にも「戦争をしません。」と書かれていますが、これはこうした原則に基づきます。