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このページ「小学校社会/6学年/歴史編/人物事典」は、まだ書きかけです。加筆・訂正など、協力いただける皆様の編集を心からお待ちしております。また、ご意見などがありましたら、お気軽にトークページへどうぞ。

ここには、小学校の歴史の勉強で出てくる人物について書いてあります(発展(はってん)的な内容および人物もふくまれています)。もっとくわしく知りたいときは、色がついているタイトルの名前をクリックしてください。ウィキペディアにあるページにリンクしてあります。少し(むずか)しいかもしれませんので、事典や身近な大人をフル活用してください。


また、難しいかもしれませんが、中学受験社会/歴史/人物をみてもいい情報があるかもしれません。

弥生(やよい)時代

卑弥呼(ひみこ)

 
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ウィキペディア卑弥呼の記事があります。
3世紀はじめごろ。邪馬台国(やまたいこく)の女王です。
当時、中国にあった()という国に使いを送り、その時に親魏倭王(しんぎわおう)の称号を与えられたとその国の歴史書(魏志倭人伝(ぎしわじんでん))に記されています。
神のおつげやうらないで政治を行ったとされています。
邪馬台国があったと考えられる場所は不明ですが、奈良(なら)にあったとするものと九州北部にあったとするものの二つの説が有力で論争が続いています。一番古い時代に作られた古墳(こふん)が、卑弥呼の墓で、奈良に邪馬台国があった場合、箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないか、と考えられています。
(→教科書本文)
学習上のポイント
「卑弥呼」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 「縄文時代」「弥生時代」をへて、人々が集まった小さな「むら」から、大きな「くに」ができるようになりました(「むら」から「くに」へ)。
  • 「くに」は、当時世界で最も有力であった中国に使いを送ります。
  • その当時、日本にはまだ文字が伝わっていませんでしたが、中国へ送った使いによって、当時の日本のことが記録され、様子がわかります。


飛鳥(あすか)時代

聖徳太子(しょうとくたいし)

 
Wikipedia
ウィキペディア聖徳太子の記事があります。
572年~622年。厩戸王(うまやどおう)などとも()ばれます。
推古(すいこ)天皇に代わって政治を行う摂政(せっしょう)として活躍(かつやく)し、豪族(ごうぞく)の集まりであったヤマト政権を天皇を中心とした政治を行うようさまざまな改革を行いました。
仏教(ぶっきょう)や中国の儒教(じゅきょう)の教えをもとに、朝廷(ちょうてい)の役人の心得(こころえ)である十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)を定めました。また、能力が高かったり手がらをたてた人が重要な仕事をできるよう冠位十二階(かんいじゅうにかい)の制度をつくりました。
仏教を深く信仰(しんこう)していた聖徳太子は、法隆寺(ほうりゅうじ)などの寺を建て、仏教の力で平和な世の中になるように願いました。
10人が同時に話しても、そのすべての内容を理解したなどの伝説がも残ります。
(→教科書本文)
  • 関連する人物
    推古天皇(すいこてんのう)
    日本で最初の女性の天皇です。推古天皇の皇太子であった聖徳太子は、摂政(せっしょう)の立場で、さまざまな改革を行いました。
    蘇我馬子(そがのうまこ)
    最大の勢力を持った豪族蘇我(そが)氏をひきい、天皇につかえるものの中で最も高い位である大臣(おおおみ)として聖徳太子を助けました。

小野妹子(おののいもこ)

 
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ウィキペディア小野妹子の記事があります。
生没年:6世紀後半〜7世紀前半。「妹子(いもこ)」という名前ですが男性(だんせい)です。
607年、聖徳太子(しょうとくたいし)の命令で第2回遣隋使(けんずいし)として中国の(ずい)の国にわたります。608年には第3回遣隋使として、ふたたび隋をおとずれます。
(→教科書本文)
学習上のポイント
「聖徳太子」や「小野妹子」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 聖徳太子より前の日本の政治は、有力な豪族が集まっただけの政治のかたちでした。
  • 聖徳太子が皇太子となったころ、こうした豪族どうしが争う一方で中国や朝鮮半島では、皇帝などを中心とした強力な国づくりが進んでいました。
  • 聖徳太子は天皇を中心とした国づくりをすることで、国をまとめようとしました。また、聖徳太子は、仏教を積極的に取り入れました。
  • 聖徳太子は、国の制度や仏教を学ぶため、中国の(ずい)に使いを送りました。その代表に選ばれて隋に渡ったのが小野妹子です。


中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

 
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ウィキペディア天智天皇の記事があります。
生没年:626年- 672年
後の天智(てんじ)天皇[1]
聖徳太子が亡くなってから、蘇我馬子をついだ蘇我蝦夷(えみし)とその子入鹿(いるか)が勝手な政治をしたため、中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともにこれをほろぼしました。
皇太子となった中大兄皇子は、力を持った豪族はいなくなったので、大化(たいか)の改新と言われる天皇中心の政治を行うために改革を行いました。大化の改新により、日本の人民と土地は天皇が支配するものとなり、人民には農地が与えられる代わり、租庸調(そようちょう)と呼ばれる税を天皇(朝廷)に納めるようになりました。
また、聖徳太子がやったように、隋を滅ぼして建国された(とう)に使い(遣唐使(けんとうし))を送りました。しかし、朝鮮半島での新羅(しらぎ)百済(くだら)との争いで、唐は新羅を、日本は百済を味方したため、敵対することになりました。この争いで新羅は百済を破り、百済は滅亡します。
中大兄皇子は、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくることにそなえ、防人(さきもり)をおいて九州を守らせ、都を現在の大阪市にあった難波宮(難波宮)から滋賀県の近江京(おうみきょう)に移しました。
(→教科書本文)
  • 関連する人物
    天武(てんむ)天皇(大海人皇子(おおあまのおうじ)
    天智天皇(中大兄皇子)の弟。はじめは天智天皇の後に天皇になる予定でしたが、皇太子を天智天皇の子である大友皇子(おおとものおうじ)に譲りました。しかし、天智天皇の死後、大友皇子と争い、勝利して天皇に即位しました。天智天皇の方針を引き継いで、天皇中心の社会を作るよう努めました。
    聖武(しょうむ)天皇など奈良時代の天皇は天武天皇の子孫になります。

中臣鎌足(なかとみのかまたり)

 
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ウィキペディア藤原鎌足の記事があります。
生没年:614年- 669年
もとは、日本伝統の神をまつる神職を職業とする豪族でしたが、仏教を盛んにしようとする蘇我氏に圧倒されていました。蘇我氏と関係の薄かった中大兄皇子に協力し、蘇我氏をともにほろぼしました。
その後、中大兄皇子の大化の改新に協力して改革を進めます。
669年、亡くなる時に天智天皇は、鎌足の功績にむくいるため、大織冠(だいしょくかん)という進化の中でも最高の位と藤原(ふじわら)の姓を与えました。したがって、中臣鎌足を藤原鎌足ともいいます。
鎌足の子孫は、奈良時代から平安時代にかけて、勢力を拡大し、朝廷の主要な役職を独占する「藤原(ふじわら)氏」となります。
学習上のポイント
「中大兄皇子・天智天皇」や「中臣鎌足・藤原鎌足」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 聖徳太子の死後、天皇を凌ぐほどの力を持った蘇我氏を、中大兄皇子と中臣鎌足が滅ぼします。
  • 中大兄皇子は、聖徳太子の目指していたところをさらに進める政策を行います。これを「大化の改新」といいます。
  • 「大化の改新」で最も重要なものは、人民と土地は直接天皇が支配し、農地を朝廷が与える代わりに人民は税(租庸調)を納めるというものです。
  • 朝鮮半島の戦争で、百済にみかたした日本は、新羅と唐の連合軍に敗北し朝鮮半島の拠点を失い、一時は唐との関係も悪化しました。
  • 天智天皇かめざした天皇中心の政治は、天智天皇の死後、律令(りつりょう)制の成立という形で完成します。

奈良(なら)時代

聖武(しょうむ)天皇

 
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ウィキペディア聖武天皇の記事があります。
生没年:701年 - 756年
奈良時代を代表する天皇です。在位中は災害や伝染病(天然痘(てんねんとう))の大流行などがあって、平穏な時代であったとは言えませんでしたが、大宝律令の完成(710年)から約30年、平城京遷都(せんと)から約20年たって、律令にもとづいた天皇中心の政治がようやく定着した時期でもありました。
(→教科書本文)
聖武天皇は仏教を手厚く保護します。この時期は、遣唐使で留学した僧も多く帰国して仏教が日本全国で定着した時期でもあり、国が安定することを目的として全ての国に国分寺と国分尼寺を建てました。その中心として、平城京(奈良)に東大寺を建立し、そこに、大仏「奈良の大仏」を作らせました。
  • 関連する人物
    光明皇后(こうみょうこうごう)
    聖武天皇の皇后です。藤原鎌足の子藤原不比等(ふひと)の娘になります。皇室出身以外から初めて皇后になりました。以後、藤原氏から多くの皇后が出るようになり、藤原氏が朝廷で力を得る例のさきがけとなりました。

行基(ぎょうき)

 
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ウィキペディア行基の記事があります。
 
行基
生没年:668年 - 749年
河内国の渡来人の家系に生まれた(そう)です。道昭(どうしょう)に学んだとされています。道昭は遣唐使で留学し玄奘(げんじょう)に学びました。玄奘は、唐からインドを訪ねて仏教を学んだそうで、西遊記の三蔵法師のモデルです。
当時の仏教は国を守護安定させるものとの考えがあり、ほとんどの僧は寺で仏教を学問として研究するものが主流で、一般の民衆への仏教の布教は禁止されていました。こうした時代に、諸国をまわって用水の池や橋を造りながら、身分を問わず教えを説きました。はじめのうちは、危険な人物と思われ、朝廷(ちょうてい)からはは行基の行動をとりしまりました。からはされました。しかし、民衆(みんしゅう)や地方豪族の尊敬(そんけい)を集め、朝廷も危険な行動ではないと理解し、後には、とりしまりをゆるめました。
こうしたなか、聖武天皇は大仏建立を命令しましたが、とても多くの人々の支持と労働力を必要とする大仏建立はなかなかすすみませんでした。そこで、朝廷は、人々にしたわれていた行基を、日本の仏教の最高峰である大僧正(だいそうじょう)に任じて、大仏建立の責任者としました。
行基のはたらきもあって、大仏建立は順調に進むようになりましたが、行基は完成前に亡くなりました。

鑑真(がんじん)

 
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ウィキペディア鑑真の記事があります。
 
国宝『鑑真和上坐像』
生没年:688年 - 763年
唐の長安で僧となるものに戒律(かいりつ)を与える教えの有名な僧侶(そうりょ)でした。戒律とは仏教の修行者が守るべき生活上のルールを言います。正式に僧や尼僧として認められるには、修行を積んだ僧から、この戒律を伝えられなければなりませんでした。特に、唐で修行する場合には、その資格を持った僧(律師)から与えられていなければ、正式な僧として修行ができませんでした。日本には唐でも認められる律師がいなかったため、遣唐使の留学僧は留学の時困っていました。742年、日本からの留学僧が、日本に律師を送ってほしいと頼まれ、弟子に声をかけましたが誰も自ら名乗り出るものはいませんでした。そこで、鑑真は自ら日本に渡ろうと決意しました。最初は皇帝からの許可が降りず、許可を得てから渡ろうとして、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。754年、6回目のこころみでようやくに日本についたころには、失明していました。聖武天皇に迎えられた鑑真は、奈良に 唐招提寺(とうしょうだいじ) を開き、正しい仏教を伝えて、多くの日本人の僧を育てました。
また、医学や薬学、美術工芸なども伝えました。


学習上のポイント
「聖武天皇」「行基」「鑑真」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 聖武天皇の時代には、律令制によって、天皇中心の政治ができるようになりました。
  • 遣唐使によって、多くの中国の文化が伝わりました。仏教も、伝わった文化の一つです。
  • 全国に国分寺・国分尼寺と都の平城京にはそれをまとめる東大寺が建てられ、東大寺には大仏が置かれました。

平安(へいあん)時代

桓武(かんむ)天皇

 
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ウィキペディア桓武天皇の記事があります。
 
桓武天皇
生没年:737年 - 806年
都を平城京(奈良)から平安京(京都)にうつした(平安遷都(へいあんせんと))天皇です。
770年、称徳(しょうとく)天皇(聖武(しょうむ)天皇の皇女)が亡くなり、天武(てんむ)天皇の子孫がたえて、天智(てんち)天皇の子孫である光仁(こうにん)天皇が即位しました。桓武天皇は光仁天皇の子で、あとを継ぎました。
平安遷都の前の朝廷は、仏教の寺院が大きな勢力を持って、僧が政治に口を出すようになり、争いが絶えないようになっていました。また、律令制がすすむことで、班田収授法によって民衆に分ける土地も奈良盆地周辺だけでは足りなくなっていました。このような問題を解決するために、桓武天皇は平城京から平安京に都を移しました。
また、桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命し、東北地方の蝦夷(えみし)をうたせるなどして、日本に律令制を確立させました。
仏教が政治にかかわるのをきらって、平安遷都では大きな寺院を平城京に残した一方で、最澄や空海を遣唐使として唐に留学させ新しい仏教を学ばせました。
(→教科書本文)
  • 関連する人物
    最澄(さいちょう)
    平安時代のはじめに活躍した僧です。平城京にあった大きな寺院から離れ、近江(今の滋賀県)の比叡山(ひえいざん)で修行しました。比叡山は平安京のすぐ東北の位置になりますが、最澄が修行を始めたのは平安遷都より前のことです。遣唐使として留学し、多くの経典などを持ち帰りました。それらは比叡山に開いた寺(後に延暦寺(えんりゃくじ)と呼ばれます)で研究され、延暦寺はのちの日本の仏教に大きな影響を与えます。最澄が開いた宗派を天台宗(てんだいしゅう)といいます。
    空海(くうかい)
    平安時代のはじめに活躍した僧です。遣唐使として最澄とともに留学し、最澄同様に多くの経典などを持ち帰りました。特に、仏教のうち密教(みっきょう)と呼ばれるものを伝え、真言宗(しんごんしゅう)を開きました。和歌山県の高野山(こうやさん)金剛峯寺(こんごうぶじ)を開き、また、嵯峨(さが)天皇[2]から、平安京の中の二つの寺のうちの一つである東寺(とうじ)をまかされます。空海の教えは、天皇や貴族だけにとどまらず、広く民衆に伝えられ、また、空海自身もため池の造営など民衆のための事業を行いました。

菅原道真(すがわらのみちざね)

 
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ウィキペディア菅原道真の記事があります。
 
左奥で顔をおおっているのが道真です。太宰府に流される時、天皇から贈られた衣を見て泣いている場面です。
生没年:845年-903年
平安時代前期の貴族です。
学問に優れ、その当時、藤原(ふじわら)氏は、他の貴族の一族を圧倒して朝廷の大事な役職を独占しようとしていましたが、それに対抗して朝廷で重要な役職につきました。政治から遠ざけようとする人々は、道真を遣唐使(けんとうし)の大使として、(とう)に送ろうとしましたが、唐は戦乱で乱れ、道真は得るものも多くないと考え、遣唐使の廃止(はいし)を申し出、これを廃止しました。その後、朝廷では右大臣まで出世しますが、藤原氏らの陰謀(いんぼう)により、太宰府(だざいふ)(現在の福岡(ふくおか)県にあった九州をおさめる役所)に流され、そこで亡くなりました。
道真の死後、朝廷では数々の異変が起こり、「これは道真の(うら)みからの(のろ)いである」とおそれられ、朝廷は道真を天満天神(てんまんてんじん)という神としてまつりました。現在では、学問の神様「天神(てんじん)さま」として有名です。道真をまつる神社を天満宮(てんまんぐう)といい、亡くなった土地である福岡県にある太宰府天満宮や京都の北野(きたの)天満宮、東京の湯島(ゆしま)天満宮などが有名です。
学習上のポイント
「菅原道真」について小学校で学習することのポイントは以下のものです。
  • 平安京に遷都して(794年)から、約100年たって政治は安定した一方で、律令制度が理想としていた天皇中心の政治から、貴族が中心となる政治に変わりつつありました。
  • 特に、有力であったのは藤原氏で、藤原氏以外の貴族が勢力をもとうとするとそれをじゃましたこともありました。菅原道真が太宰府に流されてしまったのもその例の一つです。
  • 奈良時代にさかんで、多くの新しい文化を日本に伝えた遣唐使も、この時代には得るものが少なくなっていたため廃止されました。外国の影響が少なくなったので、日本独自の文化が発達するきっかけになりました。
  • 菅原道真は神様としてまつられ、今では学問の神「天神さま」として有名です。


中臣鎌足(なかとみのかまたり)を祖先とする貴族(きぞく)。 道長は信じられないくらい運が良かったといわれています。道長は兄弟の中では末っ子でしたが、兄たちが病気や事件を起こして追放されてしまったため、貴族の中でトップの地位となりました。

自分の(むすめ)天皇(てんのう)のきさきにしたり、自分の権力(けんりょく)がゆるぎないものになったと確信し、下の「望月(もちづき)の歌」を作りました。

この世をば ()がぞと思う 望月の かけたることも なしと思えば

(この世は、望月(満月)のように欠けているところがなく、自分のもののようだ。)

道長は「源氏(げんじ)物語」の(ひかる)源氏のモデルだといわれています。道長が活躍(かつやく)していたころ、「源氏物語」を書いた紫式部(むらさきしきぶ)朝廷(ちょうてい)で道長の(むすめ)の教育係をしていました。紫式部は教育係をしながら朝廷の人々の様子を観察していたと言われています。このことから、主人公の光源氏は、道長がモデルではないかといわれています。

970年~?。一条天皇(いちじょうてんのう)のきさき(妻)の彰子(しょうこ)に仕えました。「紫式部日記」を書きました。

巡りあ((い))て みしやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半(よは)のつきかな - 紫式部

恋愛(れんあい)小説『源氏物語(げんじものがたり)』の作者。 主人公は、(ひかる)源氏という名の美少年。 源氏物語は、今も世界中で人気がある。

966年〜1025年頃。一条天皇(いちじょうてんのう)の きさき(妻) の藤原定子(ふじわらのていし/さだこ)につかえた。

夜をこめて とりのそらねは はかるとも 世にあふ(おお)さかの せきはゆるさじ - 清少納言

(ずい)筆である『枕草子(まくらのそうし)』の作者です。

平家(へいけ)の武士として、日本の歴史上、初めて、政治権力(けんりょく)中枢(ちゅうすう)をにぎった人物。源氏(げんじ)と戦い武士ではじめて太政(だいじょう)大臣となりました。1181年に()くなりました。

平家の権力の最盛期(さいせいき)には、「平家にあらずんば、人にあらず」(平家でなければ人でない)とも言われました。

1185年、平氏は、源氏によって壇ノ浦(だんのうら)、現在の山口(やまぐち)県で(ほろ)ぼされました。

鎌倉時代~戦国時代

鎌倉(かまくら)時代

源頼朝(みなもとのよりとも)

 
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ウィキペディア源頼朝の記事があります。
1147年-1199年
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて源氏(げんじ)平家(へいけ)が戦っていた時代の、源氏の棟梁(とうりょう)(リーダー)。
平治の乱で父源義朝(みなもとのよしとも)を亡くし、頼朝も処刑されるところでしたが、幼かったため許され、伊豆(いず)の国(現在の静岡県)に流されます。伊豆で地元の武士の娘北条政子(ほうじょうまさこ)と結婚し、北条氏の支援などを得て、平家に対抗する兵をあげます。
関東地方(鎌倉(かまくら))から、弟の義経(よしつね)らに指示を送って平家を(たお)しました。平家滅亡に向けた(いくさ)には頼朝は出向いていません。
その後、東北地方で強い勢力を持っていた藤原氏(公家の藤原氏と区別して奥州(おうしゅう)藤原氏と言います)を滅ぼし、全国の武士を支配、1192年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、鎌倉幕府(ばくふ)をひらきました。
  • 関連する人物
北条政子(ほうじょうまさこ)
頼朝の妻。
頼朝が()くなった後、しばらくは源氏から将軍(しょうぐん)が出たが、その後、頼朝の家系(かけい)()絶え、北条氏が、執権(しっけん)として権力(けんりょく)をにぎった。
 
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ウィキペディア源義経の記事があります。
1159年-1189年
源義朝(みなもとのよしとも)の子で頼朝(よりとも)の弟。平治の乱のとき、兄頼朝同様、(おさな)かったため許され、(そう)となるため京都北部の鞍馬山(くらまやま)で育てられました。幼い頃の名を牛若丸(うしわかまる)といいます。牛若丸は京都からのがれて、東北地方の奥州藤原氏のもとへ向かい武芸をみがき、元服して義経と名乗りました。兄頼朝が平家をほろぼす兵をあげると、その手伝いをしようと鎌倉に向かい、頼朝の軍に加わります。頼朝は義経を武士団の大将にし、西へ向かわせました。義経は、戦さにたくみで、まず、京都から平家を追い出した源義仲(よしなか)木曽(きそ)義仲)を()って、そのまま、西に向かい本州と九州の境の壇ノ浦(だんのうら)で平家を滅ぼしました。しかし、源氏と平家の戦いが終わったあと、義経は兄の頼朝に(うと)んじられ、義経は東北の奥州藤原氏のもとへ()げるはめとなりましたが、頼朝の軍勢の追撃(ついげき)にあい、最終的に、奥州藤原氏が裏切って、(ほろ)ぼされました。

元寇(げんこう)でモンゴル軍が()()みんできたときの、鎌倉幕府(かまくらばくふ)執権(しっけん)

  • 関連する人物
フビライ・ハン
元寇のときの、モンゴル本国での皇帝(こうてい)(ハン)。日本の戦場には、フビライは出向いていない。そもそもフビライは、日本には全く関心がなかった。
(かれ)が支配しようとしていたのは、おそらくユーラシア大陸方面であり、すでに中国のほとんどを支配していた。支配を広げようと、このころの時代の前後に、ベトナムや朝鮮(ちょうせん)半島などの周辺の国々とも戦争をしていたので、そのついでに日本にも攻め込んできただけである。
竹崎季長(たけさきすえなが)
元寇のときの鎌倉幕府の御家人(ごけにん)。自身の戦いを「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえまき)」に(えが)かせた。

二人の彫刻家。金剛力士像(こんごうりきしぞう)の作者。

鎌倉時代の、武士の支配する世相(せそう)を反映してか、この時代には、このような力強い作品も、好まれるようになった。

室町時代

足利尊氏

「あしかがたかうじ」。尊氏は、有力だった御家人である「足利貞氏」の息子として生まれた。鎌倉幕府がまだ生まれた時にあり、元は源氏の一族だった。若い頃についての記録がほとんどなく、出身地も鎌倉・足利・丹波など様々な説がある。

「後醍醐天皇が天皇を中心とする政治を復活させよう!」と幕府に2回も争いを仕掛けたが、敗北し島根県に追放された。しかし、後醍醐天皇は島根県から脱出して3度目の争いに挑んだ。この時尊氏は天皇の味方にならないかと誘われ、鎌倉幕府にも恩はあったが不満を抱えた尊氏は最後は天皇軍に加わった。その後いろんな場所で戦いを繰り広げ、1333年に幕府を滅ぼした。

滅ぼした後醍醐天皇は、自分の名から1字を与え「尊氏」になったという。しかし天皇を中心とする政治を行ってたため武士の不満はどんどん高まった。尊氏も天皇の政治に不満を持っていた。

そこで尊氏は武士の政治を取り戻そうと1336年に光明天皇を即位させ、後醍醐天皇を奈良に追い払った。そうした末、光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開いた。

足利義満

「あしかがよしみつ」。義満は南北朝を統一させたことで有名。

室町幕府の基礎固めをする中で、京都の室町に貴族の屋敷に見立てた武家屋敷を作った。ここに幕府を移して政治を行うためであった。その屋敷は広い庭には四季折々の花が咲き乱れたことから、人々は「花の御所」と呼ぶようになった。

南北朝を統一させた義満は息子に将軍の職を譲って、京都の北山に別荘を建てては華やかな余生を過ごした。その別荘の中にある、外側に金を張り巡らせた建物だったことから【金閣寺】と言われている。

足利義政

「あしかがよしまさ」。応仁の乱のさなか、子に将軍職をゆずり文化に没頭した。 有名な銀閣は晩年に建てられた。

雪舟

「せっしゅう」水墨画(すいぼくが)を日本風にした人。

なお、水墨画は、中国大陸が起源(きげん)であり、日本が起源ではない。

戦国時代

有力な戦国大名

  • 武田信玄
甲斐(かい)(現在の山梨県)の戦国大名。後に信濃(しなの)(長野県)と駿河(するが)(静岡県の東部)などにも勢力を伸ばす。信濃への勢力拡大の最中に越後(えちご)(新潟県)の上杉謙信と5回戦った(w:川中島の戦い)。
「風林火山」とよばれる旗印で有名。「風林火山」は「(はや)きこと風のごとく、(しず)かなること林のごとく、侵掠(しんりゃく)すること火のごとく、動かざること山のごとし。」という言葉に由来する。
分国法の一つである「甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)」を定めた。
晩年に織田信長・徳川家康とも戦う(w:三方ヶ原の戦い)が、その後に死去。あとを継いだ武田勝頼の代で武田家は滅亡する。
  • 上杉謙信
越後(えちご)(新潟県)の戦国大名。元々は長尾景虎という名前であったが、後に関東の名門である上杉家を継いだため、上杉輝虎と名のる(謙信の名は晩年。以下では謙信で統一)。
謙信は義理にあつかった人物と言われている。武田家が塩不足に悩まされていたときに、相手の弱味につけこむのは卑怯(ひきょう)とかんがえたのだろうか、武田家に塩を送り、「敵に塩を送る」のことわざの語源とされる。
  • 今川義元
駿河(するが)(静岡県東部)と遠江(とおとうみ)(静岡県西部)の戦国大名。足利家の一門でもあった有力大名。武田信玄などとも同盟を組み、三河(みかわ)(愛知県東部)と尾張(おわり)(愛知県西部)にも勢力を伸ばすが、w:桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死する。息子の氏真の代のときに武田信玄と徳川家康とに攻められて大名家としては滅亡する。
分国法の一つである今川仮名目録(いまがわかなもくろく)に追加を行った。
  • 毛利元就
安芸(あき)(広島県)の戦国大名。元々は小さな領主(りょうしゅ)にすぎなかったが、周辺の小領主を吸収して勢力を拡大する。そして、w:厳島の合戦などで周囲の有力大名を倒し、中国地方の大部分を統一する。
「三本の矢」の言い伝えで有名。元就が死ぬ直前、3人の息子達に矢を1本ずつわたして「折ってみよ」と命じた。息子はたちはなんなく矢を折った。つぎに、元就は息子に3本の矢をわたしてもう一度「この矢を折ってみよ」と言った。3本の矢はかたく、息子たちは、矢を折れなかった。そこで「おまえたちも、この矢のように3人が力をあわせよ」と言ったという。(ただし、史実ではないことが分かっている)
  • 島津貴久
薩摩(さつま)(鹿児島県西部)の戦国大名。元々は島津家の分家の出だったが、本家の養子となる。父の協力をえながら対立していた他の分家や豪族を押さえ、薩摩を統一する。その後、大隅(おおすみ)(鹿児島県東部)・日向(ひゅうが)(宮崎県)にも勢力を拡大する。
鹿児島に渡来したフランシスコ・ザビエルと面会し、日本で初めてキリスト教の布教を許可する。しかし、領地の神社・寺院の反発が激しく、布教を禁止する。
息子の義久の代で、島津家の悲願であった大隅・日向の統一に成功する。さらに、九州の有力大名も倒して九州の大半を統一するが、豊臣秀吉に敗れて薩摩・大隅・日向の一部の大名となる。
  • 長宗我部元親
  • 三好長慶
  • 顕如

フランシスコ・ ザビエル

戦国時代のころ、日本に、キリスト教を布教しにきた最初の人物。いわゆる宣教師(せんきょうし)のうちの一人。

  • 関連する人物
ルイス=フロイス

ルイス=フロイスは、宣教師の一人であり、信長に気に入られた。

安土桃山時代

織田信長

1534年~1582年。有名な合戦: 桶狭間の戦い、姉川の戦い、石山合戦、長篠の合戦、など。

元々は尾張(愛知県西部)の一部を治める大名であったが、対立する親類や勢力をたおして尾張を統一する。1560年に桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元を討ち取る。この戦いのあと、三河の松平元康(のちの徳川家康。以下、家康で統一)が独立し、家康と信長とが同盟を1562年にむすんだ。

その後、美濃(みの)(岐阜県南部)の戦国大名・斎藤竜興を倒し、信長は美濃も統一した。そして、信長は拠点を岐阜城に移した。

1568年、室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭(よしあき)の求めに応じ、上洛を開始する。信長は対立した大名を倒し、そうでない大名とは協力関係を築くことで上洛に成功する。

だが、信長の勢いが増すうちに、しだいに足利義昭と信長は対立するようになる。足利義昭は、信長以外の日本全国の大名に、信長をたおすように書状でよびかけた。そして、武田信玄や近江(滋賀県)の浅井長政、越前(えちぜん)(福井県の大半)の朝倉義景などの有力な大名や比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)と一向一揆のような一部の仏教勢力が、信長に敵対した。信長の周囲のほとんどが敵に回ったため、一時は大変な危機におちいった。しかし、浅井・朝倉などを各個に撃破することに成功した上に武田信玄が病死したため、危機を乗り切った。

そして、信長は1573年、足利義昭を京都から追い出し、室町幕府は信長によって滅ぼされた。

1575年、徳川家康は武田信玄のあとをついだ武田勝頼に攻め込まれ、信長が救援に向かう。両軍は長篠(三河国)で戦いとなり、織田・徳川軍は鉄砲を大量に使用し[3]、武田軍に勝った。これが長篠の合戦である。

1576年に信長は安土城を築いた。1582年、毛利家と戦っていた部下の羽柴秀吉を援助しようと、道中で本能寺に寝泊まりしていたところを、部下の明智光秀によって裏切られ、自害する(本能寺の変)。

信長は新しいもの好きだったようで、宣教師(せんきょうし)が地球儀を見せると、即座に地球が丸いことを理解したという。

後世の江戸時代以降の作家からは、信長の性格の例えとして「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」などと信長は評されている。

  • 家臣
柴田勝家(しばた かついえ)
羽柴秀吉(はしば ひでよし)
前田利家(まえだ としいえ)
明智光秀(あけち みつひで)

など、ほか多数。

豊臣秀吉

信長亡き後、明智光秀を倒し検地を始めた。大阪城を築き、関白となると翌年には太政大臣となった。刀狩令を出した2年後に天下統一を成し遂げた。その後、朝鮮に2度攻め込み、2回目の侵略中に病死した。

その他

  • 千利休
お茶を飲む習慣は鎌倉時代に始まっていたが、室町時代になると茶の湯として広く流行し、茶器の工芸品としての価値も高まった。そのため、高価な茶器を用いた豪華な茶会が開かれるようになった。
そのような風潮に対して、一見ありふれたような道具を用い、そまつな中の美しさを見出し、客と主人との心の交流を重んじるw:わび茶が生まれる。このわび茶をもとにして、現在の茶道を作り上げたのが千利休である。
堺の有力商人でもあった利休は、織田信長などとの取引をつうじて関係を築き上げていった。このため武将たちとも交流ができ、多くの弟子が生まれた。信長の死後、豊臣秀吉に仕えるが、秀吉の怒りをかってしまい、利休は切腹させられた。
  • 狩野永徳
戦国時代の有名な絵描きの一人。「狩野派」(かのうは)とは、彼、および、彼の弟子や孫弟子などの一門のことである。

江戸時代

 
徳川家康
1543年、三河(みかわ)(現在の愛知県東部)の大名松平(まつだいら)氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する今川(いまがわ)氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、松平元康(まつだいらもとやす)と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。
1560年桶狭間(おけはざま)の戦い今川義元が討ち死にし、今川氏が弱くなると、信長と同盟し三河をとりもどします。そして、名を徳川家康(とくがわいえやす)とかえ、遠江(とおとおみ)をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。
1572年の三方原(みかたがはら)の戦いでは大敗し、命の危険もありましたが、武田信玄が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。
逆に、1575年の長篠の戦いでは、信長との連合軍で、武田勝頼(たけだかつより)に大勝し駿河(するが)をえ、1582年武田氏をほろぼして甲斐(かい)信濃(しなの)の一部をえました。
秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。
1590年、秀吉の小田原攻めに協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、領地を北条氏のおさめていた関東に移され、江戸(えど)城を拠城(きょじょう)としました。
秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっており、秀吉政権においては五大老の筆頭でした。
秀吉の死後、1600年、関ヶ原の戦いに勝利して政権を握ります。
1603年、朝廷(ちょうてい)から 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、江戸に幕府を開きます。
1614年から翌年に「大坂の陣」を起こして豊臣氏を滅ぼしたのち、1616年亡くなりました。「東照大権現」として、日光東照宮などにまつられています。

家光は江戸幕府第3代目将軍。征夷大将軍になると、武家諸法度の中に新しく参勤交代という制度を創り江戸幕府の支配を固めだした。老中、大老を置いた

人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。町人社会の義理や人情をテーマとした作品(w:世話物)や歴史的な事件や出来事を扱ったw:時代物で評判を得る。

代表作は「曽根崎心中」「冥途(めいど)の飛脚」「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」など。

『東海道五十三次』で有名な浮世絵師。

本居宣長

「もとおりのりなが」国学を学ぶ。

 『古事記伝』を著す。

杉田玄白

 
解体新書。

前野良沢と共にオランダ書「ターヘル・アナトミア」を日本語に訳し、「解体新書」を完成させた。

伊能忠敬

日本中を駆け巡り、正確な日本地図を作る。

マシュー・ペリー

日本に開国を求め、1854年に日米和親条約を結ぶ。


勝海舟

 
1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影
1823年- 1899年
幕臣、ただし、身分はあまり高くない御家人と言われる家柄の出身です。
「海舟」は号と言われる一種のペンネームで、若い頃は「麟太郎(りんたろう)」、明治になって戸籍には「安芳(やすよし)」と記録されました。
はじめ、蘭学を学び、1853年の黒船来航をきっかけに、蘭学知識を頼りとされ、幕府に外国関係の役人として抜擢(ばってき)され、航海術などを取り扱います。1860年日本人乗組員が主となって初めて太平洋を横断した咸臨丸で米国に渡る経験をします。それから、幕府内で外国の知識が豊富な有力者として、海軍の創設などを行います。また、西郷隆盛など薩長などの有力者とも親交を持ちました。薩長同盟を仲介した坂本龍馬は、勝海舟の弟子です。
戊辰戦争で薩長軍が江戸を攻めようとした時、西郷隆盛と話し合い、江戸城を人が死ぬことなく開城させました。

坂本龍馬

西郷隆盛(薩摩藩)と木戸孝允(長州藩)を結び付け薩長同盟の成立に大きな役割を果たした。

また、土佐藩の仲間を中心に、日本初の貿易会社(海援隊)を長崎で作り、物産や武器の貿易をした。

33歳の時何者かに暗殺され、亡くなった。

明治(めいじ)時代

薩摩藩(さつまはん)出身。「討幕」を主導するなど明治維新(めいじいしん)の中心人物です(参議)。
討幕後、廃藩置県(はいはんちけん)を主導するなど、新しい社会を作るために、古い武家社会の消滅に貢献しました。
征韓論を唱えて、政府を離れました。
鹿児島に戻って、若者の指導をしていましたが、新政府に不満を持つ士族にかつぎあげられ、西南戦争を起こし敗死します。
薩摩藩(さつまはん)出身。西郷隆盛等とともに討幕を主導します。
維新後は、内務省を作り、日本の官僚制度を作り上げます。
西南戦争時には、これを指導し政府を勝利に導きます。
西南戦争の翌年、不平士族に暗殺されます。

長州藩(ちょうしゅうはん)出身。西郷隆盛(さいごうたかもり)と同じく、明治維新(めいじいしん)の中心人物です(参議)。

明治時代の天皇。五箇条(ごかじょう)御誓文(ごせいもん)を発布しました。

長州藩(ちょうしゅうはん)出身。
大久保利通の跡を継いで、日本の官僚制度を整備します。
その完成として内閣(ないかく)制度を創設(そうせつ)し、初代内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)となります。
ヨーロッパを回り、大日本帝国憲法(けんぽう)の手本となる憲法を研究し、ドイツ(当時はプロシア)の憲法を手本とすることにしました。
銀行、証券取引所、保険制度、商工会議所など、近代的な経済の仕組みを日本に導入した実業家です。
  • 関連する人物
岩崎弥太郎(いわさきやたろう)
 
福澤諭吉像(東京都港区三田・慶應大学構内)
1835年 - 1901年
豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の子として生まれます。大阪の「適塾」で蘭学を学び、1859年勝海舟らが率いる咸臨丸に同乗し渡米の経験をえ、その後ヨーロッパを訪問、再び米国を訪れるなどして、蘭学のみならず英語による欧米の文物の知識を得るようになります。
1868年(慶応4年)に、蘭学塾である慶應義塾を開きます。それまで、医学や化学など科学技術が中心であった蘭学塾と異なり、欧米の思想や会計などの制度も教えました。また、蘭学塾といいながら英語によるものが教えられていました。これが、日本で最初の近代的大学と言われる慶應義塾大学(慶應大学)の創始です。
明治時代になって、「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の近代思想を数々の著書を通じて紹介しました。『学問のすすめ』の中では「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、生まれながらの平等を説いて、努力次第で社会の重要な地位に就くことができること(立身出世)を主張しました。
官主導の明治政府に対して、民間の立場から、新聞や出版物で社会を啓蒙し、教え子を民間の各所で活躍させるなどして、日本社会の近代化を主導しました。
現在(2024年)の1万円札の肖像に用いられています。
  • 関連する人物
中江兆民(なかえちょうみん)
金玉均(きんぎょくきん) 
地租改正(ちそかいせい)などの改革(かいかく)にあたるとともに、殖産興業(しょくさんこうぎょう)推進(すいしん)しました。
自由民権運動を主導しました。

自由民権(みんけん)運動の主導者です。

日米修好通商条約の領事裁判権(りょうじさいばんけん)(治外法権(ちがいほうけん))の撤廃(てっぱい)に成功しました。

長州藩(ちょうしゅうはん)出身。
日本陸軍の仕組みを作り上げ、政府に対する強い地位を確立した。
  • 関連する人物
川上操六(かわかみそうろく)
山本権兵衛(やまもとごんのひょうえ(ごんべい)) - 海軍において山縣有朋と同様の役割を果たした。
日露(にちろ)戦争で活躍(かつやく)した海軍軍人です。

関連する人物

大山巌(おおやまいわお)
児玉源太郎(こだまげんたろう)
乃木希典(のぎまれすけ)
メッケル
日露戦争の講和会議に全件として出席し、ポーツマス条約を締結して日露戦争を終わらせた。
1911(明治44)年にアメリカとの交渉(こうしょう)で関税自主(けん)を回復させた。
1876年(明治9年) - 1928年(昭和3年)。医師、細菌学者。
福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となり、渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。
主に細菌学の研究に従事し、黄熱病(おうねつびょう)や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がった。黄熱病の研究中に自身もそれにかかり、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。
1000円札にのっている人物として有名。
その他、小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#野口英世を参照。
ドイツに留学し、伝染病を研究。帰国後、伝染病の研究所作ろうとしたが、政府の援助は得られなかったところ、福沢諭吉(ふくざわゆきち)が支援し研究所が完成、志賀潔(しがきよし)、野口英世などの研究者が生まれ育っていった。

昭和(しょうわ)時代

昭和(しょうわ)時代の天皇(てんのう)

アメリカ合衆国占領下の日本で、新憲法の成立と日本の新しい民主主義体制を確立させ、サンフランシスコ講和条約を締結し日本の主権を回復しました。。
1964年(ごろ)首相(しゅしょう)です。
日本の高度成長をおしすすめ、沖縄の日本への復帰を成功させました。
日本人で初めて、ノーベル平和賞を受賞しています。

1972年(ごろ)首相(しゅしょう)です。

脚注

  1. ^ 歴史の学習では、普通、即位後の天皇の名前で呼びますが、中大兄皇子の場合、皇太子である時期に、大化の改新などで活躍したしたため、皇太子時代の名前で呼ばれることが多いです。なお、「天智天皇」という名は、のちの奈良時代になってつけられた名前です。
  2. ^ 桓武天皇の二代後の天皇。
  3. ^ 千丁(一説に三千丁)とも言われる