小学校社会/6学年/歴史編/人物事典
ここには、小学校の歴史の勉強で出てくる人物について書いてあります(
また、難しいかもしれませんが、中学受験社会/歴史/人物をみてもいい情報があるかもしれません。
弥生 時代
卑弥呼
- 3世紀はじめごろ。
邪馬台国 の女王です。 - 当時、中国にあった
魏 という国に使いを送り、その時に親魏倭王 の称号を与えられたとその国の歴史書(魏志倭人伝 )に記されています。 - 神のおつげやうらないで政治を行ったとされています。
- 邪馬台国があったと考えられる場所は不明ですが、
奈良 にあったとするものと九州北部にあったとするものの二つの説が有力で論争が続いています。一番古い時代に作られた古墳 が、卑弥呼の墓で、奈良に邪馬台国があった場合、箸墓 古墳が卑弥呼の墓ではないか、と考えられています。- (→教科書本文)
学習上のポイント
|
飛鳥 時代
聖徳太子
- 572年~622年。
厩戸王 などとも呼 ばれます。 推古 天皇に代わって政治を行う摂政 として活躍 し、豪族 の集まりであったヤマト政権を天皇を中心とした政治を行うようさまざまな改革を行いました。仏教 や中国の儒教 の教えをもとに、朝廷 の役人の心得 である十七条の憲法 を定めました。また、能力が高かったり手がらをたてた人が重要な仕事をできるよう冠位十二階 の制度をつくりました。- 仏教を深く
信仰 していた聖徳太子は、法隆寺 などの寺を建て、仏教の力で平和な世の中になるように願いました。 - 10人が同時に話しても、そのすべての内容を理解したなどの伝説がも残ります。
- (→教科書本文)
- 関連する人物
小野妹子
- 生没年:6世紀後半〜7世紀前半。「妹子(いもこ)」という名前ですが
男性 です。 - 607年、
聖徳太子 の命令で第2回遣隋使 として中国の隋 の国にわたります。608年には第3回遣隋使として、ふたたび隋をおとずれます。- (→教科書本文)
学習上のポイント
|
中大兄皇子
- 生没年:626年- 672年
- 後の
天智 天皇[1]。 - 聖徳太子が亡くなってから、蘇我馬子をついだ蘇我
蝦夷 とその子入鹿 が勝手な政治をしたため、中臣鎌足 とともにこれをほろぼしました。 - 皇太子となった中大兄皇子は、力を持った豪族はいなくなったので、
大化 の改新と言われる天皇中心の政治を行うために改革を行いました。大化の改新により、日本の人民と土地は天皇が支配するものとなり、人民には農地が与えられる代わり、租庸調 と呼ばれる税を天皇(朝廷)に納めるようになりました。 - また、聖徳太子がやったように、隋を滅ぼして建国された
唐 に使い(遣唐使 )を送りました。しかし、朝鮮半島での新羅 と百済 との争いで、唐は新羅を、日本は百済を味方したため、敵対することになりました。この争いで新羅は百済を破り、百済は滅亡します。 - 中大兄皇子は、唐・新羅連合軍が日本に攻めてくることにそなえ、
防人 をおいて九州を守らせ、都を現在の大阪市にあった難波宮 から滋賀県の近江京 に移しました。- (→教科書本文)
- 関連する人物
天武 天皇(大海人皇子 )- 天智天皇(中大兄皇子)の弟。はじめは天智天皇の後に天皇になる予定でしたが、皇太子を天智天皇の子である
大友皇子 に譲りました。しかし、天智天皇の死後、大友皇子と争い、勝利して天皇に即位しました。天智天皇の方針を引き継いで、天皇中心の社会を作るよう努めました。 聖武 天皇など奈良時代の天皇は天武天皇の子孫になります。
- 天智天皇(中大兄皇子)の弟。はじめは天智天皇の後に天皇になる予定でしたが、皇太子を天智天皇の子である
中臣鎌足
- 生没年:614年- 669年
- もとは、日本伝統の神をまつる神職を職業とする豪族でしたが、仏教を盛んにしようとする蘇我氏に圧倒されていました。蘇我氏と関係の薄かった中大兄皇子に協力し、蘇我氏をともにほろぼしました。
- その後、中大兄皇子の大化の改新に協力して改革を進めます。
- 669年、亡くなる時に天智天皇は、鎌足の功績にむくいるため、
大織冠 という進化の中でも最高の位と藤原 の姓を与えました。したがって、中臣鎌足を藤原鎌足ともいいます。 - 鎌足の子孫は、奈良時代から平安時代にかけて、勢力を拡大し、朝廷の主要な役職を独占する「
藤原 氏」となります。
学習上のポイント
|
奈良 時代
聖武 天皇
- 生没年:701年 - 756年
- 奈良時代を代表する天皇です。在位中は災害や伝染病(
天然痘 )の大流行などがあって、平穏な時代であったとは言えませんでしたが、大宝律令の完成(710年)から約30年、平城京遷都 から約20年たって、律令にもとづいた天皇中心の政治がようやく定着した時期でもありました。- (→教科書本文)
- 聖武天皇は仏教を手厚く保護します。この時期は、遣唐使で留学した僧も多く帰国して仏教が日本全国で定着した時期でもあり、国が安定することを目的として全ての国に国分寺と国分尼寺を建てました。その中心として、平城京(奈良)に東大寺を建立し、そこに、大仏「奈良の大仏」を作らせました。
- 関連する人物
行基
- 生没年:668年 - 749年
- 河内国の渡来人の家系に生まれた
僧 です。道昭 に学んだとされています。道昭は遣唐使で留学し玄奘 に学びました。玄奘は、唐からインドを訪ねて仏教を学んだそうで、西遊記の三蔵法師のモデルです。 - 当時の仏教は国を守護安定させるものとの考えがあり、ほとんどの僧は寺で仏教を学問として研究するものが主流で、一般の民衆への仏教の布教は禁止されていました。こうした時代に、諸国をまわって用水の池や橋を造りながら、身分を問わず教えを説きました。はじめのうちは、危険な人物と思われ、
朝廷 からはは行基の行動をとりしまりました。からはされました。しかし、民衆 や地方豪族の尊敬 を集め、朝廷も危険な行動ではないと理解し、後には、とりしまりをゆるめました。 - こうしたなか、聖武天皇は大仏建立を命令しましたが、とても多くの人々の支持と労働力を必要とする大仏建立はなかなかすすみませんでした。そこで、朝廷は、人々にしたわれていた行基を、日本の仏教の最高峰である
大僧正 に任じて、大仏建立の責任者としました。 - 行基のはたらきもあって、大仏建立は順調に進むようになりましたが、行基は完成前に亡くなりました。
鑑真
- 生没年:688年 - 763年
- 唐の長安で僧となるものに
戒律 を与える教えの有名な僧侶 でした。戒律とは仏教の修行者が守るべき生活上のルールを言います。正式に僧や尼僧として認められるには、修行を積んだ僧から、この戒律を伝えられなければなりませんでした。特に、唐で修行する場合には、その資格を持った僧(律師)から与えられていなければ、正式な僧として修行ができませんでした。日本には唐でも認められる律師がいなかったため、遣唐使の留学僧は留学の時困っていました。742年、日本からの留学僧が、日本に律師を送ってほしいと頼まれ、弟子に声をかけましたが誰も自ら名乗り出るものはいませんでした。そこで、鑑真は自ら日本に渡ろうと決意しました。最初は皇帝からの許可が降りず、許可を得てから渡ろうとして、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。754年、6回目のこころみでようやくに日本についたころには、失明していました。聖武天皇に迎えられた鑑真は、奈良に唐招提寺 を開き、正しい仏教を伝えて、多くの日本人の僧を育てました。 - また、医学や薬学、美術工芸なども伝えました。
学習上のポイント
|
平安 時代
桓武 天皇
- 生没年:737年 - 806年
- 都を平城京(奈良)から平安京(京都)にうつした(
平安遷都 )天皇です。 - 770年、
称徳 天皇(聖武 天皇の皇女)が亡くなり、天武 天皇の子孫がたえて、天智 天皇の子孫である光仁 天皇が即位しました。桓武天皇は光仁天皇の子で、あとを継ぎました。 - 平安遷都の前の朝廷は、仏教の寺院が大きな勢力を持って、僧が政治に口を出すようになり、争いが絶えないようになっていました。また、律令制がすすむことで、班田収授法によって民衆に分ける土地も奈良盆地周辺だけでは足りなくなっていました。このような問題を解決するために、桓武天皇は平城京から平安京に都を移しました。
- また、桓武天皇は、
坂上田村麻呂 を征夷大将軍 に任命し、東北地方の蝦夷 をうたせるなどして、日本に律令制を確立させました。 - 仏教が政治にかかわるのをきらって、平安遷都では大きな寺院を平城京に残した一方で、最澄や空海を遣唐使として唐に留学させ新しい仏教を学ばせました。
- (→教科書本文)
- 関連する人物
最澄 - 平安時代のはじめに活躍した僧です。平城京にあった大きな寺院から離れ、近江(今の滋賀県)の
比叡山 で修行しました。比叡山は平安京のすぐ東北の位置になりますが、最澄が修行を始めたのは平安遷都より前のことです。遣唐使として留学し、多くの経典などを持ち帰りました。それらは比叡山に開いた寺(後に延暦寺 と呼ばれます)で研究され、延暦寺はのちの日本の仏教に大きな影響を与えます。最澄が開いた宗派を天台宗 といいます。
- 平安時代のはじめに活躍した僧です。平城京にあった大きな寺院から離れ、近江(今の滋賀県)の
空海 - 平安時代のはじめに活躍した僧です。遣唐使として最澄とともに留学し、最澄同様に多くの経典などを持ち帰りました。特に、仏教のうち
密教 と呼ばれるものを伝え、真言宗 を開きました。和歌山県の高野山 に金剛峯寺 を開き、また、嵯峨 天皇[2]から、平安京の中の二つの寺のうちの一つである東寺 をまかされます。空海の教えは、天皇や貴族だけにとどまらず、広く民衆に伝えられ、また、空海自身もため池の造営など民衆のための事業を行いました。
- 平安時代のはじめに活躍した僧です。遣唐使として最澄とともに留学し、最澄同様に多くの経典などを持ち帰りました。特に、仏教のうち
菅原道真
- 生没年:845年-903年
- 平安時代前期の貴族です。
- 学問に優れ、その当時、
藤原 氏は、他の貴族の一族を圧倒して朝廷の大事な役職を独占しようとしていましたが、それに対抗して朝廷で重要な役職につきました。政治から遠ざけようとする人々は、道真を遣唐使 の大使として、唐 に送ろうとしましたが、唐は戦乱で乱れ、道真は得るものも多くないと考え、遣唐使の廃止 を申し出、これを廃止しました。その後、朝廷では右大臣まで出世しますが、藤原氏らの陰謀 により、太宰府 (現在の福岡 県にあった九州をおさめる役所)に流され、そこで亡くなりました。 - 道真の死後、朝廷では数々の異変が起こり、「これは道真の
怨 みからの呪 いである」とおそれられ、朝廷は道真を天満天神 という神としてまつりました。現在では、学問の神様「天神 さま」として有名です。道真をまつる神社を天満宮 といい、亡くなった土地である福岡県にある太宰府天満宮や京都の北野 天満宮、東京の湯島 天満宮などが有名です。
学習上のポイント
|
自分の
この世をば
(この世は、望月(満月)のように欠けているところがなく、自分のもののようだ。)
道長は「
970年~?。
巡りあ
966年〜1025年頃。
夜をこめて とりのそらねは はかるとも 世に
平家の権力の
1185年、平氏は、源氏によって
鎌倉時代~戦国時代
鎌倉 時代
源頼朝
- 1147年-1199年
- 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて
源氏 と平家 が戦っていた時代の、源氏の棟梁 (リーダー)。 - 平治の乱で父
源義朝 を亡くし、頼朝も処刑されるところでしたが、幼かったため許され、伊豆 の国(現在の静岡県)に流されます。伊豆で地元の武士の娘北条政子 と結婚し、北条氏の支援などを得て、平家に対抗する兵をあげます。 - 関東地方(
鎌倉 )から、弟の義経 らに指示を送って平家を倒 しました。平家滅亡に向けた戦 には頼朝は出向いていません。 - その後、東北地方で強い勢力を持っていた藤原氏(公家の藤原氏と区別して
奥州 藤原氏と言います)を滅ぼし、全国の武士を支配、1192年に征夷大将軍 に任命され、鎌倉幕府 をひらきました。
- 関連する人物
北条政子 - 頼朝の妻。
- 頼朝が
亡 くなった後、しばらくは源氏から将軍 が出たが、その後、頼朝の家系 が途 絶え、北条氏が、執権 として権力 をにぎった。
- 1159年-1189年
源義朝 の子で頼朝 の弟。平治の乱のとき、兄頼朝同様、幼 かったため許され、僧 となるため京都北部の鞍馬山 で育てられました。幼い頃の名を牛若丸 といいます。牛若丸は京都からのがれて、東北地方の奥州藤原氏のもとへ向かい武芸をみがき、元服して義経と名乗りました。兄頼朝が平家をほろぼす兵をあげると、その手伝いをしようと鎌倉に向かい、頼朝の軍に加わります。頼朝は義経を武士団の大将にし、西へ向かわせました。義経は、戦さにたくみで、まず、京都から平家を追い出した源義仲 (木曽 義仲)を討 って、そのまま、西に向かい本州と九州の境の壇ノ浦 で平家を滅ぼしました。しかし、源氏と平家の戦いが終わったあと、義経は兄の頼朝に疎 んじられ、義経は東北の奥州藤原氏のもとへ逃 げるはめとなりましたが、頼朝の軍勢の追撃 にあい、最終的に、奥州藤原氏が裏切って、滅 ぼされました。
- 関連する人物
- フビライ・ハン
- 元寇のときの、モンゴル本国での
皇帝 (ハン)。日本の戦場には、フビライは出向いていない。そもそもフビライは、日本には全く関心がなかった。
彼 が支配しようとしていたのは、おそらくユーラシア大陸方面であり、すでに中国のほとんどを支配していた。支配を広げようと、このころの時代の前後に、ベトナムや朝鮮 半島などの周辺の国々とも戦争をしていたので、そのついでに日本にも攻め込んできただけである。
竹崎季長 - 元寇のときの鎌倉幕府の
御家人 。自身の戦いを「蒙古襲来絵詞 」に描 かせた。
二人の彫刻家。金剛力士像(こんごうりきしぞう)の作者。
鎌倉時代の、武士の支配する世相(せそう)を反映してか、この時代には、このような力強い作品も、好まれるようになった。
室町時代
足利尊氏
「あしかがたかうじ」。尊氏は、有力だった御家人である「足利貞氏」の息子として生まれた。鎌倉幕府がまだ生まれた時にあり、元は源氏の一族だった。若い頃についての記録がほとんどなく、出身地も鎌倉・足利・丹波など様々な説がある。
「後醍醐天皇が天皇を中心とする政治を復活させよう!」と幕府に2回も争いを仕掛けたが、敗北し島根県に追放された。しかし、後醍醐天皇は島根県から脱出して3度目の争いに挑んだ。この時尊氏は天皇の味方にならないかと誘われ、鎌倉幕府にも恩はあったが不満を抱えた尊氏は最後は天皇軍に加わった。その後いろんな場所で戦いを繰り広げ、1333年に幕府を滅ぼした。
滅ぼした後醍醐天皇は、自分の名から1字を与え「尊氏」になったという。しかし天皇を中心とする政治を行ってたため武士の不満はどんどん高まった。尊氏も天皇の政治に不満を持っていた。
そこで尊氏は武士の政治を取り戻そうと1336年に光明天皇を即位させ、後醍醐天皇を奈良に追い払った。そうした末、光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開いた。
足利義満
「あしかがよしみつ」。義満は南北朝を統一させたことで有名。
室町幕府の基礎固めをする中で、京都の室町に貴族の屋敷に見立てた武家屋敷を作った。ここに幕府を移して政治を行うためであった。その屋敷は広い庭には四季折々の花が咲き乱れたことから、人々は「花の御所」と呼ぶようになった。
南北朝を統一させた義満は息子に将軍の職を譲って、京都の北山に別荘を建てては華やかな余生を過ごした。その別荘の中にある、外側に金を張り巡らせた建物だったことから【金閣寺】と言われている。
足利義政
「あしかがよしまさ」。応仁の乱のさなか、子に将軍職をゆずり文化に没頭した。 有名な銀閣は晩年に建てられた。
雪舟
「せっしゅう」水墨画(すいぼくが)を日本風にした人。
なお、水墨画は、中国大陸が起源(きげん)であり、日本が起源ではない。
戦国時代
有力な戦国大名
- 武田信玄
甲斐 (現在の山梨県)の戦国大名。後に信濃 (長野県)と駿河 (静岡県の東部)などにも勢力を伸ばす。信濃への勢力拡大の最中に越後 (新潟県)の上杉謙信と5回戦った(w:川中島の戦い)。- 「風林火山」とよばれる旗印で有名。「風林火山」は「
疾 きこと風のごとく、徐 かなること林のごとく、侵掠 すること火のごとく、動かざること山のごとし。」という言葉に由来する。 - 分国法の一つである「
甲州法度次第 」を定めた。 - 晩年に織田信長・徳川家康とも戦う(w:三方ヶ原の戦い)が、その後に死去。あとを継いだ武田勝頼の代で武田家は滅亡する。
- 上杉謙信
越後 (新潟県)の戦国大名。元々は長尾景虎という名前であったが、後に関東の名門である上杉家を継いだため、上杉輝虎と名のる(謙信の名は晩年。以下では謙信で統一)。- 謙信は義理にあつかった人物と言われている。武田家が塩不足に悩まされていたときに、相手の弱味につけこむのは
卑怯 とかんがえたのだろうか、武田家に塩を送り、「敵に塩を送る」のことわざの語源とされる。
- 今川義元
駿河 (静岡県東部)と遠江 (静岡県西部)の戦国大名。足利家の一門でもあった有力大名。武田信玄などとも同盟を組み、三河 (愛知県東部)と尾張 (愛知県西部)にも勢力を伸ばすが、w:桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死する。息子の氏真の代のときに武田信玄と徳川家康とに攻められて大名家としては滅亡する。- 分国法の一つである
今川仮名目録 に追加を行った。
- 毛利元就
安芸 (広島県)の戦国大名。元々は小さな領主 にすぎなかったが、周辺の小領主を吸収して勢力を拡大する。そして、w:厳島の合戦などで周囲の有力大名を倒し、中国地方の大部分を統一する。- 「三本の矢」の言い伝えで有名。元就が死ぬ直前、3人の息子達に矢を1本ずつわたして「折ってみよ」と命じた。息子はたちはなんなく矢を折った。つぎに、元就は息子に3本の矢をわたしてもう一度「この矢を折ってみよ」と言った。3本の矢はかたく、息子たちは、矢を折れなかった。そこで「おまえたちも、この矢のように3人が力をあわせよ」と言ったという。(ただし、史実ではないことが分かっている)
- 島津貴久
薩摩 (鹿児島県西部)の戦国大名。元々は島津家の分家の出だったが、本家の養子となる。父の協力をえながら対立していた他の分家や豪族を押さえ、薩摩を統一する。その後、大隅 (鹿児島県東部)・日向 (宮崎県)にも勢力を拡大する。- 鹿児島に渡来したフランシスコ・ザビエルと面会し、日本で初めてキリスト教の布教を許可する。しかし、領地の神社・寺院の反発が激しく、布教を禁止する。
- 息子の義久の代で、島津家の悲願であった大隅・日向の統一に成功する。さらに、九州の有力大名も倒して九州の大半を統一するが、豊臣秀吉に敗れて薩摩・大隅・日向の一部の大名となる。
- 長宗我部元親
- 三好長慶
- 顕如
フランシスコ・ ザビエル
戦国時代のころ、日本に、キリスト教を布教しにきた最初の人物。いわゆる宣教師(せんきょうし)のうちの一人。
- 関連する人物
- ルイス=フロイス
ルイス=フロイスは、宣教師の一人であり、信長に気に入られた。
安土桃山時代
織田信長
1534年~1582年。有名な合戦: 桶狭間の戦い、姉川の戦い、石山合戦、長篠の合戦、など。
元々は尾張(愛知県西部)の一部を治める大名であったが、対立する親類や勢力をたおして尾張を統一する。1560年に桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元を討ち取る。この戦いのあと、三河の松平元康(のちの徳川家康。以下、家康で統一)が独立し、家康と信長とが同盟を1562年にむすんだ。
その後、
1568年、室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭(よしあき)の求めに応じ、上洛を開始する。信長は対立した大名を倒し、そうでない大名とは協力関係を築くことで上洛に成功する。
だが、信長の勢いが増すうちに、しだいに足利義昭と信長は対立するようになる。足利義昭は、信長以外の日本全国の大名に、信長をたおすように書状でよびかけた。そして、武田信玄や近江(滋賀県)の浅井長政、
そして、信長は1573年、足利義昭を京都から追い出し、室町幕府は信長によって滅ぼされた。
1575年、徳川家康は武田信玄のあとをついだ武田勝頼に攻め込まれ、信長が救援に向かう。両軍は長篠(三河国)で戦いとなり、織田・徳川軍は鉄砲を大量に使用し[3]、武田軍に勝った。これが長篠の合戦である。
1576年に信長は安土城を築いた。1582年、毛利家と戦っていた部下の羽柴秀吉を援助しようと、道中で本能寺に寝泊まりしていたところを、部下の明智光秀によって裏切られ、自害する(本能寺の変)。
信長は新しいもの好きだったようで、宣教師(せんきょうし)が地球儀を見せると、即座に地球が丸いことを理解したという。
後世の江戸時代以降の作家からは、信長の性格の例えとして「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」などと信長は評されている。
- 家臣
- 柴田勝家(しばた かついえ)
- 羽柴秀吉(はしば ひでよし)
- 前田利家(まえだ としいえ)
- 明智光秀(あけち みつひで)
など、ほか多数。
豊臣秀吉
信長亡き後、明智光秀を倒し検地を始めた。大阪城を築き、関白となると翌年には太政大臣となった。刀狩令を出した2年後に天下統一を成し遂げた。その後、朝鮮に2度攻め込み、2回目の侵略中に病死した。
その他
- 千利休
- お茶を飲む習慣は鎌倉時代に始まっていたが、室町時代になると茶の湯として広く流行し、茶器の工芸品としての価値も高まった。そのため、高価な茶器を用いた豪華な茶会が開かれるようになった。
- そのような風潮に対して、一見ありふれたような道具を用い、そまつな中の美しさを見出し、客と主人との心の交流を重んじるw:わび茶が生まれる。このわび茶をもとにして、現在の茶道を作り上げたのが千利休である。
- 堺の有力商人でもあった利休は、織田信長などとの取引をつうじて関係を築き上げていった。このため武将たちとも交流ができ、多くの弟子が生まれた。信長の死後、豊臣秀吉に仕えるが、秀吉の怒りをかってしまい、利休は切腹させられた。
- 狩野永徳
- 戦国時代の有名な絵描きの一人。「狩野派」(かのうは)とは、彼、および、彼の弟子や孫弟子などの一門のことである。
江戸時代
- 1543年、
三河 (現在の愛知県東部)の大名松平 氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する今川 氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、松平元康 と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。 - 1560年
桶狭間 の戦いで今川義元が討ち死にし、今川氏が弱くなると、信長と同盟し三河をとりもどします。そして、名を徳川家康 とかえ、遠江 をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。 - 1572年の
三方原 の戦いでは大敗し、命の危険もありましたが、武田信玄が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。 - 逆に、1575年の長篠の戦いでは、信長との連合軍で、
武田勝頼 に大勝し駿河 をえ、1582年武田氏をほろぼして甲斐 と信濃 の一部をえました。 - 秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。
- 1590年、秀吉の小田原攻めに協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、領地を北条氏のおさめていた関東に移され、
江戸 城を拠城 としました。 - 秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっており、秀吉政権においては五大老の筆頭でした。
- 秀吉の死後、1600年、関ヶ原の戦いに勝利して政権を握ります。
- 1603年、
朝廷 から征夷大将軍 に任命され、江戸に幕府を開きます。 - 1614年から翌年に「大坂の陣」を起こして豊臣氏を滅ぼしたのち、1616年亡くなりました。「東照大権現」として、日光東照宮などにまつられています。
家光は江戸幕府第3代目将軍。征夷大将軍になると、武家諸法度の中に新しく参勤交代という制度を創り江戸幕府の支配を固めだした。老中、大老を置いた
人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。町人社会の義理や人情をテーマとした作品(w:世話物)や歴史的な事件や出来事を扱ったw:時代物で評判を得る。
代表作は「曽根崎心中」「
『東海道五十三次』で有名な浮世絵師。
本居宣長
「もとおりのりなが」国学を学ぶ。
『古事記伝』を著す。
杉田玄白
前野良沢と共にオランダ書「ターヘル・アナトミア」を日本語に訳し、「解体新書」を完成させた。
伊能忠敬
日本中を駆け巡り、正確な日本地図を作る。
マシュー・ペリー
日本に開国を求め、1854年に日米和親条約を結ぶ。
勝海舟
- 1823年- 1899年
- 幕臣、ただし、身分はあまり高くない御家人と言われる家柄の出身です。
- 「海舟」は号と言われる一種のペンネームで、若い頃は「
麟太郎 」、明治になって戸籍には「安芳 」と記録されました。 - はじめ、蘭学を学び、1853年の黒船来航をきっかけに、蘭学知識を頼りとされ、幕府に外国関係の役人として
抜擢 され、航海術などを取り扱います。1860年日本人乗組員が主となって初めて太平洋を横断した咸臨丸で米国に渡る経験をします。それから、幕府内で外国の知識が豊富な有力者として、海軍の創設などを行います。また、西郷隆盛など薩長などの有力者とも親交を持ちました。薩長同盟を仲介した坂本龍馬は、勝海舟の弟子です。 - 戊辰戦争で薩長軍が江戸を攻めようとした時、西郷隆盛と話し合い、江戸城を人が死ぬことなく開城させました。
坂本龍馬
西郷隆盛(薩摩藩)と木戸孝允(長州藩)を結び付け薩長同盟の成立に大きな役割を果たした。
また、土佐藩の仲間を中心に、日本初の貿易会社(海援隊)を長崎で作り、物産や武器の貿易をした。
33歳の時何者かに暗殺され、亡くなった。
明治 時代
薩摩藩 出身。「討幕」を主導するなど明治維新 の中心人物です(参議)。- 討幕後、
廃藩置県 を主導するなど、新しい社会を作るために、古い武家社会の消滅に貢献しました。 - 征韓論を唱えて、政府を離れました。
- 鹿児島に戻って、若者の指導をしていましたが、新政府に不満を持つ士族にかつぎあげられ、西南戦争を起こし敗死します。
薩摩藩 出身。西郷隆盛等とともに討幕を主導します。- 維新後は、内務省を作り、日本の官僚制度を作り上げます。
- 西南戦争時には、これを指導し政府を勝利に導きます。
- 西南戦争の翌年、不平士族に暗殺されます。
明治時代の天皇。
長州藩 出身。- 大久保利通の跡を継いで、日本の官僚制度を整備します。
- その完成として
内閣 制度を創設 し、初代内閣総理大臣 となります。 - ヨーロッパを回り、大日本
帝国憲法 の手本となる憲法を研究し、ドイツ(当時はプロシア)の憲法を手本とすることにしました。
- 銀行、証券取引所、保険制度、商工会議所など、近代的な経済の仕組みを日本に導入した実業家です。
- 関連する人物
- 1835年 - 1901年
- 豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の子として生まれます。大阪の「適塾」で蘭学を学び、1859年勝海舟らが率いる咸臨丸に同乗し渡米の経験をえ、その後ヨーロッパを訪問、再び米国を訪れるなどして、蘭学のみならず英語による欧米の文物の知識を得るようになります。
- 1868年(慶応4年)に、蘭学塾である慶應義塾を開きます。それまで、医学や化学など科学技術が中心であった蘭学塾と異なり、欧米の思想や会計などの制度も教えました。また、蘭学塾といいながら英語によるものが教えられていました。これが、日本で最初の近代的大学と言われる慶應義塾大学(慶應大学)の創始です。
- 明治時代になって、「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の近代思想を数々の著書を通じて紹介しました。『学問のすすめ』の中では「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、生まれながらの平等を説いて、努力次第で社会の重要な地位に就くことができること(立身出世)を主張しました。
- 官主導の明治政府に対して、民間の立場から、新聞や出版物で社会を啓蒙し、教え子を民間の各所で活躍させるなどして、日本社会の近代化を主導しました。
- 現在(2024年)の1万円札の肖像に用いられています。
- 関連する人物
地租改正 などの改革 にあたるとともに、殖産興業 を推進 しました。- 自由民権運動を主導しました。
自由
日米修好通商条約の
長州藩 出身。- 日本陸軍の仕組みを作り上げ、政府に対する強い地位を確立した。
- 関連する人物
日露 戦争で活躍 した海軍軍人です。
関連する人物
- 日露戦争の講和会議に全件として出席し、ポーツマス条約を締結して日露戦争を終わらせた。
- 1911(明治44)年にアメリカとの
交渉 で関税自主権 を回復させた。
- 1876年(明治9年) - 1928年(昭和3年)。医師、細菌学者。
- 福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となり、渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。
- 主に細菌学の研究に従事し、
黄熱病 や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がった。黄熱病の研究中に自身もそれにかかり、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。 - 1000円札にのっている人物として有名。
- その他、小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#野口英世を参照。
- ドイツに留学し、伝染病を研究。帰国後、伝染病の研究所作ろうとしたが、政府の援助は得られなかったところ、
福沢諭吉 が支援し研究所が完成、志賀潔 、野口英世などの研究者が生まれ育っていった。
昭和 時代
- アメリカ合衆国占領下の日本で、新憲法の成立と日本の新しい民主主義体制を確立させ、サンフランシスコ講和条約を締結し日本の主権を回復しました。。
- 1964年
頃 の首相 です。 - 日本の高度成長をおしすすめ、沖縄の日本への復帰を成功させました。
- 日本人で初めて、ノーベル平和賞を受賞しています。
1972年