高等学校の学習 > 高等学校国語 > 高等学校文学国語 > 高等学校文学国語/化物の進化

本文

編集
人閒文化の進󠄁步の道󠄁程において發明され創作されたいろいろの作品の中でも「化物(ばけもの)」などは尤もすぐれた傑作と言はなければなるまい。 化物もやはり人閒と自然の接觸(せつしよく)から生まれた正嫡子(せいちやくし)であつて、その出入する世界は一面には宗敎の世界であり、また一面には科學の世界である。 同時にまた藝術(げいじゆつ)の世界ででもある。
いかなる宗敎でもその敎典の中に「化物」の活躍しないものはあるまい。 化物なしにはおそらく宗敎なるものは成立しないであらう。 もつとも時代の推移に應じて化物の表象は變化するであらうが、その心的內容においては永久に同一であるべきだと思はれる。
昔の人は多くの自然界の不可解な現象を化物の所業として說明した。 やはり一種の作業假說(かせつ)である。 雷電の現象は(とら)の皮の(ふんどし)を着けた鬼の(わる)ふざけとして說明されたが、今日では空中電氣と(しよう)する怪物の活動だと言はれてゐる。 空中電氣といふとわかつたやうな顏をする人は多いがしかし雨滴(うてき)の生成分裂によつていかに電氣の分離蓄積が起こり、いかにして放電が起こるかは專門家(せんもんか)にもまだよくはわからない。 今年のグラスゴーの科學者の大會(たいかい)でシンプソンとウィルソンと二人の學者が大議論をやつたさうであるが、これはまさにこの化物の正體(せゐたい)(かん)する問題についてであつた。 結局はただ昔の化物が名前と姿を變へただけの事である。
自然界の不思議さは原始人類にとつても、二十世紀の科學者にとつても同じくらゐに不思議である。 その不思議を昔われらの先祖が化物へ歸納したのを、今の科學者は分子原子電子へ持つて行くだけの事である。 昔の人でもおそらく當時(たうじ)彼らの身邊(しんぺん)の石器土器を「見る」と同じ意味で化物を見たものはあるまい。 それと同じやうにいかなる科學者でもまだ天秤(てんびん)試驗管(しけんかん)を「見る」ように原子や電子を見た人はないのである。 それで、もし昔の化物が實在(じつざい)でないとすれば今の電子や原子も實在ではなくて結局一種の化物であると言はれる。 原子電子の存在を假定する事によつて物理界の現象が遺󠄁憾なく說明し()られるからこれらが物理的實在であると主張するならば、雷神の存在を假定する事によつて雷電風雨の現象を說明するのとどこがちがふかといふ疑問が出るであらう。 もつとも、これには明らかな相遺󠄁の(てん)がある事はここで改まつて言ふまでもないが、しかしまた共通なところもかなりにある事は(あらそ)われない。 ともかくもこの二つのものの比較はわれわれの科學なるものの本質に關する省察(せいさつ)の一つの方面を示唆する。
雷電の怪物が分解して一半は科學のはうへ入り一半は宗敎のはうへ走つて行つた。すべての怪異も同樣(どうやう)である。前者は集積し凝縮し電子となりプロトーンとなり、後者は一つにかたまり合つて全能の神樣になり天地の大道󠄁となつた。 さうして兩者(りやうしや)ともに人閒の創作であり藝術である。流派がちがふだけである。
それゆゑに化け物の歷史は人閒文化の一面の歷史であり、時と場所との環境の變化(へんか)がこれに如實に反映してゐる。鐮倉時代の化け物と江戶時代の化け物を比較し、江戶の化け物とロンドンの化け物を比較してみればこの事はよくわかる。
前年だれか八頭の大蛇とヒドラのお化けとを比較した人があつた。 近ごろにはインドのヴィシヌとギリシアのポセイドンの關係を論じてゐる學者もある。 またガニミード神話の反映をガンダラのある彫刻に求めたある學者の考へでは、(わし)がガルダに化けた事になつてゐる。 そしておもしろい事にはその彫刻に現はされたガルダの(かたち)が、わが國の天狗大和尙(てんぐだいおしよう)の顏によほど似たところがあり、また一方ではジャヴァのある魔神によく似てゐる。 またわれわれの子供の時からおなじみの「赤鬼」の顏がジャヴァ、インド、東トルキスタンからギリシアへかけて、いろいろの名前と表情とをもつて橫行してゐる。 また大江山の酒顛童子(しゆてんどうじ)の話とよく似た話がシナにもあるさうであるが、またこの話はユリシースのサイクロップス退治の話とよほど似たところがある。 のみならずこのシュテンドウシがアラビアから來たマレイ語で「恐ろしき惡魔」といふ意味の言葉に似てをり、もう一つ脫線すると源賴光の音讀(おんどく)がヘラクレースとどこか似通つてたり、もちろん暗合として一笑に附すればそれまでであるが、さればと言つて暗合であるといふ科學的證明(しようめい)もむつかしいやうな事例はいくらでもある。 ともかくも世界じゆうの化物たちの系圖(けいず)調べをする事によつて古代民族閒の交涉を探知する一つの手掛かりとなりうる事はむしろ既知の事實である。 さうして言論や文字や美術品を手掛かりとするこれと同樣な硏究よりもいつさう有力でありうる見込みがある。 なぜかと言へば各民族の化け物にはその民族の宗敎と科學と藝術とが綜合されてゐるからである。
しかし不幸にして科學が進步するとともに科學といふものの眞價(しんか)が誤解され、買ひかぶられた結果として、化物に對する世人の興味が不正當に稀薄になつた、今どき本氣になつて化物の硏究でも始めようといふ人はかなり氣が引けるであらうと思ふ時代の形勢である。
全くこのごろは化物どもがあまりにゐなくなり過ぎた感がある。 今の子供らが御伽話(おとぎばなし)の中の化物に(たい)する感じはほとんどただ空想的な滑稽味あるいは怪奇味だけであつて、われわれの子供時代に感じさせられたやうに頭の頂上から足の爪先まで突き拔けるやうな銳い神祕の感じはなくなつたらしく見える。 これはいつたいどちらが子供らにとつて幸福であるか、どちらが子供らの敎育上有利であるか、これも存外多くの學校の先生の信ずるごとくに簡單な問題ではないかもしれない。 西洋の御伽話に「ゾッとする」とはどんな事か知りたいといふばか者があつてわざわざ化物屋敷へ探險に出かける話があるが、あの話を聞いてあの豪傑を羨ましいと感ずべきか、あるいは可哀想と感ずべきか、これも疑問である。 ともかくも「ゾッとする事」を知らないやうな豪傑が、かりに科學者になつたとしたら、まづあまりたいした仕事はできさうにも思はれない。
しあはせな事にわれわれの少年時代の田舍にはまだまだ化物がたくさんに生き殘つてゐて、そしてそのおかげでわれわれは充分な「化物敎育」を受ける事ができたのである。 鄕里の家の長屋に重兵衞(じやうべえ)さんといふ老人がゐて、每晚晚酌の(さかな)に近所の子供らを(ぜん)の向ひにすわらせて、生の大蒜(にんにく)をぼりぼりかじりながらうまさうに熱い(さかづき)()めては數限りもない化物の話をして聞かせた。 思ふにこの老人は一千一夜物語の著者のごとき創作的天才であつたらしい。 さうして傳說(でんせつ)の化物新作の化物どもを隨意に眼前に躍らせた。 われわれの臆病なる小さな心臟は老人の意のままに高く低く鼓動した。 夜ふけて歸るおのおのの家路には樹の陰、河の岸、路地の奧の(いた)るところにさまざまな化物の幻影が待ち伏せて動いてゐた。 化物は實際に當時のわれわれの世界にのびのびと生活してゐたのである。 中學時代になつてもまだわれわれと化物との交涉は續いてゐた。 友人で禿(はげ)のNといふのが化け物の創作家として衆にひいでてゐた。 彼は近所のあらゆる曲り角や芝地や、橋の(たもと)や、大樹の(こずゑ)やに一つづつきはめて恰好な妖怪を創造󠄁して配置した。 たとへば「三角芝の足舐(あしねぶり)」とか「T橋の袂の腕眞砂(うでまさご)」などといふ類である。 前者は川沿ひのある芝地を空風(からかぜ)の吹く夜中に通󠄁つてゐると、何者かが來て不意にべろりと足を嘗める、すると急に發熱して三日のうちに死ぬかもしれないといふ。 後者は、城山の(ふもと)の橋の袂に人の腕が眞砂のやうに一面に撒布してゐて、通󠄁行人の(すそ)}を引き止め足をつかんで步かせない、これに()ふとたいていはその場で死ぬといふのである。 もちろんもう「中學敎育」を受けてゐるそのころのわれわれはだれもそれらの化物をわれわれの五官に觸れ()べき物理的實在としては信じなかつた。 それに(かかは)らずこの創作家Nの藝術的に描き出した立派な妖怪の「詩」はわれわれのうら若い頭に何かしら神祕な雰圍氣(ふんいき)のやうなものを吹き込んだ、あるいは神祕な存在、不可思議な世界への憧憬(どうけい)に似たものを鼓吹(こすい)したやうに思はれる。 日常茶飯の世界の彼方に、常識では測り知り難い世界がありはしないかと思ふ事だけでも、その心は知らず知らず自然の表面の諸相の奧に隱れたある物への省察へ導かれるのである。
このやうな化物敎育は、少年時代のわれわれの科學智識に對する興味を阻礙(そがい)しなかつたのみならず、かへつてむしろますますそれを鼓舞したやうにも思はれる。 これは一見奇妙なやうではあるが、よく考へてみるとむしろ當然な事でもある。 皮肉なやうであるがわれわれにほんとうの科學敎育を與へたものは、數々の立派な中等敎科書よりは、むしろ長屋の重兵衞さんと友人のNであつたかもしれない。 これは必ずしも無用の變癡奇論(へんちきろん)ではない。
不幸にして科學の中等敎科書は往々にしてそれ自身の本來の目的を裏切つて被敎育者の中に芽ばえつつある科學者の胚芽(はいが)を殺す場合がありはしないかと思はれる。 實は非常に不可思議で、だれにもほんとうにはわからない事をきはめてわかり切つた平凡な事のやうにあまりに簡單に說明して、それでそれ以上にはなんの疑問もないかのやうにすつかり安心させてしまふやうな傾きがありはしないか。 さういふ科學敎育が普遍󠄁となりすべての生徒がそれをそのまま素直に受け入れたとしたら、世界の科學はおそらくそれきり進󠄁步を止めてしまふに相違󠄂ない。
通󠄁俗科學などと稱するものがやはり同樣である。 「科學フアン」を喜ばすだけであつて、ほんとうの科學者を培養するものとしては、どれだけの效果がはたしてその弊害を償ひうるか問題である。 特にそれが科學者としての體驗(たいけん)を持たない本当のジヤーナリストの手によつて行なはれる場合には尙更の考へものである。
かういふ皮相的科學敎育が普及した結果として、あらゆる化物どもは箱根はもちろん日本の國境から追放された。 あらゆる化け物に關する貴重な「事實」をすべて迷󠄁信といふ言葉で抹殺する事がすなはち科學の目的であり手柄ででもあるかのやうな誤解を生ずるやうになつた。 これこそ「科學に對する迷󠄁信」でなくて何であらう。 科學の目的は實に化物を搜し出す事なのである。 この世界がいかに多くの化物によつて滿たされてゐるかを敎える事である。
昔の化物は昔の人にはちやんとした事實であつたのである。 一世紀以前の科學者に事實であつた事がらが今では事實でなくなつた例はいくらもある。 たとへば電氣や光熱や物質に關するわれわれの考へでも昔と今とはまるで變はつたと言つてもよい。 しかし昔の學者の信じた事實は昔の學者にはやはり事實であつたのである。 神鳴りの正體を鬼だと思つた先祖を笑ふ科學者が、百年後の科學者に同じやうに笑はれないとだれが保證しうるであらう。
古人の書き殘した多くの化物の記錄は、昔の人に不思議と思はれた事實の記錄と見る事ができる。 今日の意味での科學的事實では到底有り得ない事はもちろんであるが、しかしそれらの記錄の中から今日の科學的事實を掘り出しうる見込みのある事はたしかである。
そのやうな化物の一例として私は前に「提馬風(たいばふう)」のお化けの正體を論じた事がある。 その後に私の問題となつた他の例は「鐮鼬(かまひたち)」と稱する化物の事である。
鐮鼬の事はいろいろの書物にあるが、「伽婢子(おとぎぼうこ)」といふ書物によると、關東地方にこの現象が多いらしい、旋風が吹きおこつて「通󠄁行人の身にものあらくあたれば(もも)のあたり縱さまにさけて、剃刀(かみそり)にて切りたるごとく口ひらけ、しかも痛みはなはだしくもなし、また血は少しも出でず、云々(うんぬん)」とあり、また名字正しき侍にはこの害なく卑賤(ひせん)の者は金持ちでもあてられるなどと書いてある。 ここにも時代の反映が出てゐておもしろい。雲萍雜誌(うんぴようざつし)には「西國方(さいごくがた)風鐮(かざかま)といふものあり」としてある。 この現象については先年わが國のある學術雜誌で氣象學上から論じた人があつて、その所說によると旋風の中では氣壓(きあつ)がはなはだしく低下するために皮膚が裂けるのであらうと說明してあつたやうに記憶するが、この說は物理學者には少し()に落ちない。 たとへかなり眞空(しんくう)になつても護謨(ゴム)球か膀胱(ぼうかう)か何かのやうに脚部の破裂する事はありさうもない。 これは明らかに强風のために途󠄁上の木竹片あるいは砂粒のごときものが高速度で衝突するために皮膚が截斷(せつだん)されるのである。 旋風內の最高風速󠄁はよくはわからないが每秒七八十メートルを越える事も珍しくはないらしい。 彈丸の速󠄁度に比べれば問題にならぬが、玩具(おもちや)の弓で射た矢よりは速󠄁いかもしれない。 數年前アメリカの氣象學雜誌に出てゐた一例によると、麥藁(むぎわら)(くき)が大旋風に吹きつけられて堅い板戶に突きささつて、ちやうど矢の立つたやうになつたのが寫眞(しやしん)で示されてゐた。 麥藁が板戶に穿入(せんにゆう)するくらゐなら、竹片が人閒の肉を破つてもたいして不都合はあるまいと思はれる。下賤の者にこの災いが多いといふのは統計の結果でもないから問題にならないが、しかし下賤の者の總數が高貴な者の總數より多いとすれば、それだけでもこの事は當然である。 その上にまた下賤のものが脚部を露出して步く機會が多いとすればなほさらの事である。 また關東に特別に旋風が多いかどうかはこれも充分な統計的資料がないからわからないが、小規模のいはゆる「塵旋風(ちりせんぷう)」は武藏野のやうな平野に多いらしいから、この事も全く無根ではないかもしれない。
怪異を科學的に說明する事に對して反感をいだく人もあるやうである。 それはせつかくの神祕なものを淺薄なる唯物論者の土足に踏み(にじ)られるといつたやうな不快を感じるからであるらしい。 しかしそれは僻見(へきけん)であり誤解である。 いはゆる科學的說明が一通りできたとしても實はその現象の神祕は少しも減じないばかりでなくむしろますます深刻になるだけの事である。 たとへば鐮鼬の現象がかりに前記のやうな事であるとすれば、ほんとうの科學的硏究は實はそこから始まるので、前に述べた事はただ問題の構成(フォーミュレーション)であつて解決(ソリューション)ではない。 またこの現象が多くの實驗的數理的硏究によつて、いくらか詳しくわかつたとしたところで、それからさきの問題は無限である。 さうして何の何某が何日にどこでこれに遭󠄁遇󠄁するかを豫言(よげん)する事はいかなる科學者にも永久に不可能である。 これをなしうるものは「神樣」だけである。
鸚鵡石(おうむいし)」といふ不思議な現象の記事を、輶軒小錄(ゆうけんしようろく)提醒紀談(ていせいきだん)笈埃隨筆(きゆうあいずいひつ)等で散見する。 これは山腹に露出した平滑な岩盤が適󠄁當な場所から發する音波を反響󠄃させるのだといふ事は今日では小學兒童にでもわかる事である。 岩面に草木があつては音波を擾亂(じやうらん)するから反響󠄃が充分でなくなる事も多くの物理學生には明らかである。 しかしこれらの記錄中でおもしろいと思はるるのは、ある書では笛の音がよく反響󠄃しないとあり、他書には(かね)鼓鈴のごときものがよく響󠄃かないとある事である。 笈埃隨筆では「この地は神跡だから佛具を忌むので、それで鉦や鈴は響󠄃かぬ」といふ說に對し、そんなばかな事はないと抗辯し「それならば念佛や題目を唱へても反響󠄃しないはずだのに、反響󠄃するではないか」などといふ議論があり、結局五行說(ごぎようせつ)か何かへ持つて行つて無理に故事つけてゐるところがおもしろい。 五行說は物理學の卵であるとも言はれる。 これについて思ひ出すのは十餘年前の夏大島(おおしま)三原火山(みはらかざん)を調べるために、あの火口原の一隅(いちぐう)に數日閒のテント生活をした事がある。 風のない穩やかなある日あの火口丘の頂に立つて大きな聲を立てると前面の火口壁から非常に明瞭な反響󠄃が聞こえた。 おもしろいので試みにアー、イー、ウー、エー、オーと五つの母音を交互に出してみると、ア、オなどは强く反響󠄃するのにイやエは弱く短くしか反響しない。 これはたぶんあとの母音は振動數の多い上音(オバートーン)に富むため、またさういふ上音はその波長の短いために吸收分散が多く結局全體としての反響󠄃の度が弱くなるからではないかと考へてみた事がある。 ともかくもこの事と、鸚鵡石で鉦や鈴や調子の高い笛の音の反響󠄃しないといふ記事とは相照應する點がある。 しかしこれも本式に硏究してみなければよくはわからない。
近󠄁ごろは海の深さを測定するために高周波の音波を船底から海水中に送り、それが海底で反響󠄃するのを利用する事が實行されるやうになつた。 これを硏究した學者たちが、どの程度まで上記の問題に立ち入つたか私は知らない。 しかしこの鸚鵡石で問題になつた事はこの場合當面の問題となつて再燃しなければならないのである。 伊勢の鸚鵡石にしても今の物理學者が實地に出張して硏究しようと思へばいくらでも硏究する問題はある。 そしてその結果はたとへば大講堂や劇場の設計などに何かの有益な應用を見いだすに相違󠄂ない。
餘談(よだん)ではあるが、二十年ほど前にアメリカの役者が來て、たしか歌舞伎坐(かぶきざ)であつたかと思ふが、「リップ・ヴァン・ウィンクル」の芝居をした事がある。 山の中でリップ・ヴァン・ウィンクルが元氣よく自分の名を叫ぶと、反響󠄃がおおぜいの聲として「リーッウ・ウァーン・ウィーンウール」と調子の低い空虛な氣味の惡い聲で(あざけ)るやうに答へるのが、いかにも眞に迫󠄁つておもしろかつたのを記憶する。 これは前述のやうな理由で音聲の音色が變はる事と、反射面に段階のあるために音が引き延ばされまた幾人もの聲になつて聞こえる事と、この二つの要素がちやんとつかまれてゐたからである。 思ふにこの役者は「木魂(こだま)」のお化けをかなりに深く硏究したに相違ないのである。
「伽婢子」卷の十二に「大石(おほいし)相戰(あいたた)かう」と題して、上杉謙信の春日山の城で大石が二つある日の夕方しきりにをどり動いて相衝突し夜半過ぎまでけんかをして結局互ひに碎けてしまつた。 それからまもなく謙信が病死したとある。 これももちろんあまり當てにならない話であるが、しかし作りごとにしてもなんらかの自然現象から暗示された作りごとであるかもしれない。 私の調べたところでは、北陸道一帶にかけて昔も今も山崩れ地(すべ)りの現象が特に著しい。 これについては故・神保(じんぼ)博士その他の詳しい調査もあり、今でも時々新聞で報道される。 地辷りの(ある)ものでは地盤の運動は割合に緩徐で、すべつてゐる地盤の上に建つた家などぐらぐらしながらもそのままで運ばれて行く場合もある。 從つて岩などもぐらぐら動き、また互ひに衝突しながら全體として移動する事もありさうである。 さういふ實際の現象から「石と石がけんかする」といふアイデアが生まれたかもしれないと思はれる。 それで、もし、この謙信居城の地の地辷りに關する史料を搜索して何か獲物でも見つかれば少しは話が物になるが、今のところではただの空想に過ぎない。 しかしこの話がともかくもさういふ學問上の問題の導火線となりうる事だけは事實である。
地變に關係のある怪異では空中から毛の降る現象がある。 これについては古來記錄が少なくない。 これは多くの場合にたぶん「火山毛」すなはち「ペレ女神の髮の毛」と稱するものに相違ない。 江戶でも慶長寬永寬政文政のころの記錄がある。 耽奇漫錄(たんきまんろく)によると文政七年の秋降つたものは、長さの長いのは一尺七寸もあつたとある。 この前後伊豆大島火山が活動してゐた事が記錄されてゐるが、この時ちやうど江戶近くを通つた颱風(たいふう)のためにぐあひよく大島の空から江戶の空へ運󠄁ばれて來て落下したものだといふ事がわかる。 從つてそれから判󠄁斷(はんだん)してその日の低氣壓の進󠄁路のおおよその見當をつける事が可能になるのである。
氣象に關係のありさうなのでは「狸の腹鼓」がある。 この現象は現代の東京にもまだあるかもしれないがたぶんは他の二十世紀文化の物音に壓倒されてゐるためにだれも注意しなくなつたのであらうと思ふ。 ともかくも氣溫や風の特異な垂直分布による音響󠄃の異常傳播(でんぱ)と關係のある怪異であらうと想像される。 今では遠󠄁い停車場の機關車の出し入れの音が時として非常に閒近󠄁く聞こえるといつたやうな現象と姿を變へて注意されるやうになつた。 狸もだいぶモダーン化したのである。 このやうな現象でも精細な記錄を作つて硏究すれば氣象學上に有益な貢獻(こうけん)をする事も可能であらう。
天狗(てんぐ)」や「河童(かつぱ)」の類となると物理學や氣象學の範圍からはだいぶ遠ざかるやうである。 しかし「天狗樣のお囃子(はやし)」などといふものはやはり前記の音響󠄃異常傳播の一例であるかもしれない。
天狗和尙とジユースの神の鷲との親族關係は前に述べたが、河童や海龜(うみがめ)の親類である事は善庵隨筆(ぜんあんずいひつ)に載つてゐる「寫生圖(しやせいず)」と記事、また筠庭雜錄(いんていざつろく)にある繪や記載を見ても明らかである。 河童の寫生圖は明らかに龜の主要な特徵を具備してをり、その記載には現に「龜のごとく」といふ文句が四か所もある。 さうだとするとこれらの河童捕獲の記事はある年のある月にある沿岸で海龜がとれた記錄になり、場合によつては海洋學上の貴重な參考資料にならないとは限らない。
ついでながらインドへんの國語で海龜を「カチファ」といふ。 「カッパ」と似てゐておもしろい。
もつとも「河童」と稱するものは、その實いろいろ雜多な現象の綜合とされたものであるらしいから、今日これを論ずる場合にはどうしてもいつたんこれをその主要成分に分析して各成分を一々吟味した後に、これらがいかに組合(くみあは)されてゐるか、また時代により地方によりその結合形式がいかに變化してゐるかを考究しなければならない。 これはなかなか容易でないが、もしできたらかなりおもしろく有益であらうと思ふ。 このやうな分析によつて若干の化物の元素を析出すれば、他の化物はこれらの化物元素の異なる化合物として說明されないとも限らない。 CとHとOだけの組み合はせで多數の有機物が出るやうなものかもしれない。 これも一つの空想である。
要するにあらゆる化物をいかなる程度まで科學で說明しても化物は決して退󠄁散も消滅もしない。 ただ化物の(かたち)がだんだんにちがつたものとなつて現はれるだけである。人閒が進󠄁化するにつれて、化物も進󠄁化しないわけには行かない。 しかしいくら進󠄁化しても化物はやはり化物である。 現在の世界じゆうの科學者らは每日各自の硏究室に閉ぢこもり懸命にこれらの化物と相撲(すもう)を取りその正體を見破らうとして努力してゐる。 しかし自然科學界の化物の數には限りがなくおのおのの化物の面相にも際限がない。 正體と見たは枯れ柳であつてみたり、枯れ柳と思つたのが化物であつたりするのである。 この化物と科學者の戰ひはおそらく永遠󠄁に續くであらう。 さうしてさうする事によつて人閒と化物とは永遠の進󠄁化の道󠄁程をたどつて行くものと思はれる。
化物がないと思ふのはかへつてほんとうの迷󠄁信である。 宇宙は永久に怪異に滿ちてゐる。 あらゆる科學の書物は百鬼夜行繪卷物(えまきもの)である。 それを(ひもと)ゐてその怪異に戰慄(せんりつ)する心持ちがなくなれば、もう科學は死んでしまふのである。
私は時々密かに思ふ事がある、今の世に尤も多く神祕の世界に出入するものは世閒からは物質科學者と呼ばるる科學硏究者ではあるまいか。 神祕なあらゆるものは宗敎の領域を去つていつのまにか科學の國に移つてしまつたのではあるまいか。
またこんな事を考へる、科學敎育はやはり昔の化物敎育のごとくすべきものではないか。 法律の條文を諳記させるやうに敎え込󠄁むべきものではなくて、自然の不思議への憧憬を吹き込󠄁む事が第一義ではあるまいか。 これには敎育者自身が常にこの不思議を體驗してゐる事が必要である。 既得の智識を繰り返󠄁して受け賣りするだけでは不十分である。 宗敎的體驗の少ない宗敎家の說敎で(ちやう)衆の中の宗敎家を呼びさます事は稀であると同じやうなものであるまいか。
こんな事を考へるのはあるいは自分の子供の時に受けた「化物敎育」の(くすり)が效き過ぎて、せつかく受けたオーソドックスの科學敎育を自分の「お化け鏡」の曲面に映して見てゐるためかもしれない。 さうだとすればこの一篇は一つの懺悔錄(ざんげろく)のやうなものであるかもしれない。 これは讀者の判󠄁斷に任せるほかにない。
傳聞するところによると現代物理學の第一人者であるデンマークのニエルス・ボーアは現代物理學の根本に橫たわるある矛盾を論じた際に、この矛盾を解きうるまでにわれわれ人閒の頭はまだ進んでゐないだらうといふ意味の事を言つたさうである。 この尊敬すべき大家の謙遜(けんそん)な言葉は今の科學で何事でもわかるはずだと考へるやうな迷󠄁信者に對する箴言(しんげん)であると同時に、また私のいはゆる「化物」の存在を許す認容の言葉であるかとも思ふ。 もしさうだとすると長い閒封じ込󠄁められてゐた化物どももこれから公然と大手をふつて步ける事になるのであるが、これもしかし私の疑心暗鬼的の解釋かもしれない。 識者の啓蒙(けいもう)を待つばかりである。

注釈

編集
  • 正嫡子:ここでは、「家督を継ぐもの」の意。
  • 作業假說:研究や実験の過程で、暫定的に有効と見做される仮説。
  • 雷電:雷と稲妻。
  • 空中電氣:大気の電荷や大気中を流れる電流などによって起こる電気的な自然現象の総称。
  • グラスゴー:イギリス第4の都市。英国文化の中心地として知られる。
  • シンプソン:サー・ジョージ・クラーク・シンプソン。1878年生、1964年没。イギリスの気象学者で、雷雨の電気的機構の研究を行った。
  • ウィルソン:チャールズ・トムソン・リーズ・ウィルソン。1869年生、1959年没。イギリスの物理学者で、霧箱によりイオンの飛跡を撮影することに成功した。
  • 歸納:個々の観察された事例から、一般に通ずるような法則を導き出すこと。
  • 原子や電子を見た人はいない:現在では原子と思しき粒子の存在は確認されているが、それが我々の考える原子と全く同一の存在であるかは証明されていない。
  • 省察:省みて、その良し悪しを考えること。
  • プロトーン:陽子。
  • ヒドラ:ギリシア神話に登場する猛毒の神蛇。ヒュドラ。ポセイドンの曾孫で、ケルベロスやキマイラを兄弟に持つ。
  • ヴィシヌ:創造の神ブラフマー、破壊の神シヴァに並ぶヒンドゥー教の最高神の1人。ヴィシュヌ。維持の神。
  • ポセイドン:ギリシア神話に登場する溟海と地震の神。オリュンポス12神の一柱で、最高神ゼウスに継ぐ強さを持つ。
  • ガニミード神話:イーリオスの王子にしてギリシア神話の恵雨の神、ガニュメーデースに関する神話。
  • ガンダラ:現在のパキスタン北西部に存在した古代王国。ガンダーラ
  • ガルダ:ヴィシュヌが乗り物として使う、炎を纏った神鳥。ガルーダ。欧州の不死鳥(フェニックス)や中国の鳳凰(ほうおう)、日本の朱雀(すざく)と同一視する意見がある。
  • ジャヴァ:インドネシアのジャワ島。
  • シナ:中国のこと。漢字では「支那」。現在では蔑称とされ、「東シナ海」「南シナ海」などの固有名詞以外では用いられない。
  • ユリシース:古代ギリシアの叙事詩『オデュッセイア』の英語名。ユリシーズ。英雄オデュッセウスがトロヤ戦争に勝利してから故郷に凱旋するまでを描いている。
  • サイクロップス:オデュッセウスに退治された一つ目の巨人。あるいは、ギリシア神話の天空神ウラヌスと地母神ガイアの子である嵐の妖精。
  • マレイ語:東南アジアのマレー半島周辺で話される主要な言語。
  • 源賴光:清和源氏初代・源経基の孫。酒呑童子討伐や土蜘蛛退治などの伝説、日本刀・童子切などで知られる。明智光秀の21代前の先祖である。
  • ヘラクレース:ギリシア神話に登場する英雄。古代オリンピックの原型を作ったとされる。また、神々に与えられた12の試練の中でヒュドラを滅ぼした。
  • 綜合:「総合」の本来の表記。
  • 晩酌:夕食の際に酒を飲むこと。
  • 随意:束縛や制限がなく自分の思うがままであること。
  • 一夜千夜物語:イスラム世界における説話集。英題は『アラビアンナイト』。名の由来は、「女性不信な王の生娘処刑をやめさせるために大臣の娘が嫁いで面白い話を毎夜語り聞かせたら、王は話の続きを聞くために娘を生かし続け、1000日目に遂に処刑することを止めた」というあらすじから。
  • 阻礙:「阻害」の本来の表記。「礙」は「妨げる」の意。
  • 憧憬:憧れること。
  • 變癡奇論:常識の盲点を突いた論理展開。
  • 皮相的:上部だけで判断するような浅はかな。
  • 提馬風:馬を一瞬で殺す魔風の妖怪。頽魔の一種。
  • 鎌鼬:両手に鎌がついた鼬の妖怪。
  • 伽婢子:1666年に浅井了意によって書かれた仮名草子。中国の怪異小説集を話材にとった小説集。
  • 雲萍雜誌:1843年に書かれた随筆『雲萍雑志』のこと。勧善懲悪など道徳を説く。
  • 截斷:「切断」の異表記。
  • 麥藁の莖:硬くて中心に穴が空いており、天然のストローとして利用される。
  • 穿入:穴を開けながら入り込むこと。
  • 塵旋風:旋風(つむじかぜ)
  • 武藏野:東京都と埼玉県に跨がる洪積台地
  • 唯物論:観念や精神、心などの根底的なものは物質であると考え、それを重視する考え方。物質論。
  • 僻見:偏見。
  • 鸚鵡石:その石にむかって声や音を発すると、オウムのようにその声や音のまねをするとされる石。三重県志摩市にあるものが有名。
  • 輶軒小錄:1873年に伊藤長胤によって書かれた随筆。
  • 提醒紀談:1850年に山崎美成によって書かれた随筆。
  • 笈埃隨筆:百井塘雨が書いた随筆。
  • 擾亂:騒ぎを引き起こして社会の秩序を乱すこと。
  • 五行說:陰陽道において、世界を火・水・木・金・土の五行と日・月の陰陽の七属性の組合せで成り立っていると考える説。
  • 大島:東京都大島町の伊豆大島。
  • 三原火山:伊豆大島の最高峰。標高758m。最近では1986年に大規模な噴火を起こした。
  • 上音:オーバートーン。高い調子の声。あるいは、基音(基本振動数の音)よりも振動数の多い音。
  • リップ・ヴァン・ウィンクル:アメリカのワシントン・アーヴィングによる短編小説。主人公が山中で奇妙なオランダ人集団に酒を振舞われて熟睡し、覚醒すると20年もの歳月が流れていたという話。
  • 木魂:声や音が山や谷などに反響すること。山彦(やまびこ)。「木霊」「谺」とも書く。
  • 春日山:新潟県上越市にある山。標高180m。上杉氏の居城・春日山城があった。
  • 寬永:元号の一つ。1624〜1644年。島原の乱が起こった時期。
  • 寬政:元号の一つ。1789〜1801年。寛政の改革が行われた時期。
  • 文政:元号の一つ。1818〜1831年。化政文化が発達したほか、シーボルト事件が起こった時期。
  • 耽奇漫錄:1825年に滝沢馬琴らによって書かれた考証随筆
  • 狸の腹鼓:月夜に狸が腹を叩いて楽しむという言い伝え。
  • 機關車:動力装置を塔載し、自走できない車輛を牽引・推進して線路を走行する鉄道車両。
  • 有機物:炭素系化合物のうち、一酸化炭素・二酸化炭素・炭酸塩などを除いたもの。有機化合物
  • 百鬼夜行:数多の妖怪が闇夜に列をなして行進すること。
  • オーソドックス:古典的、伝統的、正統、主流派、保守的であること。歴史的視点から見て普通であること。
  • ニエルス・ボーア:ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア。1885年生、1962年没。現在用いられている原子モデルを確立したほか、核分裂反応の存在を予言した。
  • 箴言:戒めの言葉。教訓を含む言葉。格言。金言。
  • 啓蒙:無知の人を啓発して正しい知識に導くこと。使用方法によっては相手を見下す文脈に受け取られる可能性があるので、注意すべき語。


鑑賞

編集

『化物の進化』は1929年に発表された作品である。

作者の寺田寅彦は1878年生、1935年没の地球物理学者で、潮汐の副振動の観測や結晶解析学の黎明期の研究を支えるなどの業績を残す一方で、科学と文学を融合させた随筆を多数執筆するなど、文学者としても活躍した。夏目漱石の最古参の弟子で、漱石の『三四郎』『吾輩は猫である』の登場人物のモデルにもなっている。

本文では、様々な例を提示しながら科学と化物の関連について述べている。通常、科学に於いて仮説は検証の繰り返しにより通説となる。検証に用いるデータは仮説の正しさを前提に恣意的に蒐集・選択されたものであってはならないが、仮説の検証過程には常に「そう見るからそう見える」という同語反復(トートロジー)の罠が潜む。これは科学の初学者にとって落とし穴となる。また、「それまでの観測範囲では成り立っていた法則が、技術の向上により観測範囲が拡大した結果として崩れてしまう」ということが多々ある。簡単な例を挙げると、実数の範囲では という法則が成り立っていたが、複素数範囲ではこの法則は成り立たず、 という形に拡張する必要がある( ̄は共役複素数の記号であり、実数の共役複素数はその実数自身であるため、元の法則も成り立つ)。もしも科学が客観的な真理であるならば、地動説・万有引力・座標・微分積分・核反応・相対性理論などの科学革命(パラダイム・シフト)は起こる筈がない。『現代の国語』「魔術化する科学技術」でも扱ったように、科学は決して万能ではなく、不変で究極の真理ではないのである。

「科学で証明されていない=存在しない・有り得ない・インチキだ」という思考回路を持つ人間が一定数存在する。しかし、そのような考え方が危険であることはこの文章を読めば解ってもらえるだろう。科学を神格化して信望する姿勢は、そのような人が嘲笑する「宗教を盲信する人」と何が違うのか。本来ならば、「科学で証明されていない=わからない」という思考回路を持つのが正常である。故に現代日本の、幽霊・妖怪・神仏・超常現象・地球外知的生命体etc.といった超自然的存在を信じる人を嘲る風潮は異常なのである。このような超自然的存在を科学的手法で解明しようとする学問として、「心霊科学」というものが存在する。日本では研究者の少ないマイナーな学問であるが、海外では盛んに研究されており、他の科学分野と同様の学問的地位を確立している。

副読本として、寺田寅彦『時の観念とエントロピーとプロバビリティ』の読書を推奨する。ただし、前提知識としてエントロピーはこちらを参照。