高等学校世界史探究/中国の古代文明Ⅲ

※ 石器時代や土器時代の古代中国史の年代については、研究者によって数100年単位で年代が違うので、あまり細かい年号を覚える必要は無い。1000年単位で覚えれば、じゅうぶんだろう。


古代の時代では、東アジアの文明は、メソポタミアやエジプトなどオリエント地方よりも、おくれていた。

中国で青銅器を生産しだしたのは、紀元前1600年より以降だと考えられている。 なお、メソポタミアで青銅器が作られたのが、だいたい紀元前3500年ごろからである。中国でも紀元前3000年ごろのものと思われる青銅器も見つかっているが、これらはメソポタミアなどの先進文明の地域から交易などによって 中国に持ち込まれたものだろうと考えられている。


中国で青銅器が使われ始めた時期は、前1700年ごろからであり、それ以前の時代は土器の時代である。

土器は、中国では前5000年ごろから、使われはじめた。それ以前は、石器時代である。

石器は、中国では前6000年ごろから使われ始めた。

新石器文化と土器文化

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農作物の生産の歴史について、中国では前6000年ごろに、黄河の流域ではアワなどの穀物が栽培され、長江の流域で稲が栽培された。

前5000年ごろ、黄河の中流域を中心に、彩文土器(さいもんどき)が用いられた。(仰韶文化、ぎょうしょうぶんか)という。 どうも、黄河の下流ではなく、中流域のほうが、当時は栄えていたらしい。


前2000年代ごろから、土器が薄手の黒陶(こくとう)に進歩した。黒陶は、高温で焼き、表面を研磨してある。同じころ、厚手の灰陶(かいとう)も生産されていた。

(※ 教科書によっては、前3000年ごろから黒陶が生産されていたとする書籍もある。研究者によって、1000年単位で年数が違うので、あまり細かく覚えなくて良い。)

この黒陶が発見された遺跡の名前をとって、これらの文化を竜山(りゅうざん、ロンシャン)文化という。黄河下流域に竜山遺跡があり、竜山文化も黄河下流域を中心に栄えた。


中国史で、現在存在が証明できた最古の王朝は、(いん)である。 伝説では「夏」(か)という王朝があるが、存在は証明されていない。殷は前1700ごろから成立し、前11世紀ごろには滅んだ。

20世紀初めに、殷墟(いんきょ)が発掘された。(殷墟の位置は河南省(かなんしょう)安陽(あんよう)市) この殷墟の発掘などによって、殷では文字に甲骨文字が使われ、金属器に青銅器が使われていたことが分かった。甲骨文字は、亀甲や獣骨(肩甲骨など)に刻まれ、占いに用いられていた。骨の割れ目から、占うようである。

前11世紀ごろ、周(しゅう)が殷を滅ぼした。周の都が鎬京(こうけい)に置かれた。(位置は西安市)

周は前8世紀ごろ内乱になり、そして東の洛邑(らくゆう)に都が移された。(洛邑は現在の洛陽(らくよう)) これ以前(洛邑遷都の以前)を西周(せいしゅう)といい、これ以降を東周(とうしゅう)という。

この東周のころ、周王朝の権威はおとろえており、名目上は周が中国を統一しているが、じっさいは諸侯が勢力争いをする戦乱の時代になっていた。


東周の前半の前770〜前403年を春秋時代(しゅんじゅう じだい)といい、後半の前403年〜前221年を戦国時代(せんごく じだい)という。この2つの時代をまとめて春秋・戦国時代(しゅんじゅう・せんごくじだい)ともいう。


戦国時代には、勢力争いで、(かん)・(ぎ)・(ちょう)・(せい)・(えん)・(そ)・(しん)の七カ国が大国になった。この七カ国を戦国の七雄(しちゆう)という。

なお、のちに最終的に、秦が他の諸侯を倒し、周王朝を滅ぼし、秦が中国統一する。

さて、戦国時代のころに戻る。金属器は、この戦国時代のころに、農業で鉄製農具が普及した。

なお、貨幣では、西周後半から青銅貨幣が用いられた。


(※ 高校国語「国語総合」の以下の作品が、春秋戦国時代をあつかった作品である。

高等学校国語総合/漢文/鶏鳴狗盗 (けいめい くとう)
鶏口牛後(けいこうぎゅうご) :十八史略
隗より始めよ(先従隗始) (かい より はじめよ):十八史略
高等学校国語総合/漢文/臥薪嘗胆 (がしん しょうたん)
管鮑之交   (2015-07-31) (かんぽう の まじわり):十八史略

諸子百家

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(※ 高校国語「古文B」漢文を読んだほうが早い。 リンク: ウィキブックス『高等学校古典B』 )

  • 思想

法家(ほうか)

高等学校古典B/漢文/侵官之害 (しんかん の がい)  : 韓非子(かんびし)
高等学校古典B/漢文/人之性悪 (ひとのせい は あく なり)  :荀子(じゅんし) (※ いわゆる「性悪説」)

儒家(じゅか)

高等学校古典B/漢文/不忍人之心 (ひと に しのびざる の こころ)  :孟子(もうし)
高等学校古典B/漢文/性善 (せいぜん)  :孟子(もうし)

墨家(ぼくか)

高等学校古典B/漢文/非攻 (ひこう)  :墨子(ぼくし)

道家(どうか)、老荘思想(ろうそう しそう)

高等学校古典B/漢文/小国寡民 (しょうこく かみん)  :老子(ろうし)
高等学校古典B/漢文/渾沌 (こんとん)  :荘子(そうし)
高等学校古典B/漢文/胡蝶之夢 (こちょう の ゆめ)  :荘子(そうし)


  • 史伝

外交策

縦横家(じゅうおうか)
鶏口牛後(けいこう ぎゅうご)(十八史略)。 蘇秦(そしん)について


  • 文学 (※ 参考)

韻文(いんぶん)

高等学校古文/散文・説話/漁父辞 (ぎょほ の じ)。 屈原(くつげん)について

春秋戦国の時代に、諸侯たちは、敵国を出し抜くために改革をすすめようとして、諸侯たちは知識人を登用して集めた。

また、社会の変化により、新しい様々な思想などが表れた。

この春秋戦国時代の、このような知識人たちを諸子百家(しょしひゃっか)という。

儒教(じゅきょう)を創始して説いた孔子(こうし)は、この春秋戦国の時代の思想家である。

孔子や、儒者の孟子(もうし)は、周の制度を理想として、道徳や孝行、礼儀、思いやりによる秩序を説いた。孔子の生きた時代は戦争の時代であったので、だからこそ平和の尊さを説く思想家が表れたのであろう。

なお、孔子の教えが書かれた『論語』をまとめたのは、孔子ではなく、孔子の弟子たちである。

儒者の孟子は、人間はうまれながらに善人であるとする、性善説を説いた。

いっぽう、それまでの儒者に反対する荀子(じゅんし)は、社会維持のための教育を重視し、教育を受けなければ善人になれないとして、性善説を否定し、そして荀子は性悪説(せいあくせつ)を説いた。荀子は性悪説の説明のための例え話で、たとえば病にかかった子の命を救うのは、けっして母の愛ではなく、医師である、医学の教育を受けた医師が病人を救うのである、というような例え話を用いるなどして、儒者の説く身内重視の感情を批判し、性善説の無能さ・不十分さを説明し、荀子は性悪説を説明した。

儒家のほかにも、さまざまな思想が、この春秋戦国の時代にあらわれていた。

儒家(じゅか)の他に、

厳格な法治の意義と方法を説く、韓非子(かんびし)などによる法家(ほうか)が表れた。韓非子は、荀子の弟子である。韓非子・荀子よりも前の時代に、商鞅(しょうおう)という人が、法律による信賞必罰の思想を実践していて、韓非子はそれを参考にして発展させた。商鞅には、身分に拘わらず処罰を行ったため、貴族のうらみをかい、やがてそれが失脚につながり、自らが逃亡を計ったときに、国境の検問所でつかまり、自らがつくった法律によって処罰され処刑されたという。

秦は、法家の思想を採用し、厳格な法治によって強兵政策を行い、秦は強国になった。

人為を否定する老子(ろうし)や荘子(そうし)の思想の、道家(どうか)が表れた。
専守防衛による武装平和論を説いて、侵略のための戦争は否定するという非行(ひこう)の思想を説く、墨子(ぼくし)による墨家(ぼくか)が表れた。また、墨子は、儒家の血縁主義を、差別的だとして批判した。


思想のほかにも、戦術や兵法を研究して説いた孫子(そんし)などの兵家(へいか)があらわれた。 外交策を説いた、蘇秦(そしん)や張儀(ちょうぎ)などの縦横家(じゅうおうか)が表れた。

(※ 蘇秦(そしん)をあつかった漢文については、 鶏口牛後(十八史略)を参照せよ。)

このほか、陰陽五行(いんようごぎょう)によって、天体の運行を人間生活と結びつける陰陽家(いんようか、おんようか)が表れた。

農業の重要性を論じた農家(のうか、※ 思想家の呼び名)も表れた。

文学などでは、各地の民謡が『詩経』としてまとめられた。また、『楚辞』(そじ)には、楚の屈原(くつげん、人名)の韻文(いんぶん)がまとめられた。

(※ 屈原についての高校「古文B」漢文作品については、 高等学校古文/散文・説話/漁父辞 漁父の辞 (ぎょほのじ)を参照せよ。」